日暮れの音

待機する読書

喫茶店や電車の中、本は場所を選ばずにどこでもひらけるものだけれど、いざ読みだすとまわりのひとの動きや会話が気になってしまい思うように頭に入ってこない。そういう経験は書物を偏好するものならばきっと誰にでもあるはずだ。自分の周囲でとめどなく生起するさまざまな事象に気を取られ、他者の気配を感じながら読める本のタイプは限られている。だから外出時にしばらく持ち歩いてはみたけれど結局読めなかった本というのも、そういう人間ならば一冊や二冊、心当たりがあるのではないだろうか。

そういう本は自分の部屋の中のとりわけ気持ちの落ちつく場所で読むにかぎる。机の高さや背もたれの角度に調光。まずはその環境から整えなければならない読書というものがあって、そういう本を読むときには一見瑣末とも思えるカーテンのめくれた裾だって、しっかりとなおしておきたいものなのだ。

そういう本の中でもとりわけ大切な本になると、それは環境にとどまらず読むものの精神状態にも大きな注意を要する。まるで連日の暴風雨のなかの一瞬の凪のように、心の波がぴたっと鏡のように静止するタイミング。そのいっとき、その瞬間の〝凪いだ精神〟でなければ読むことのできない本というのがこの世には存在する。すこし無理をして読もうと思えば読めてしまうかもしれない。それでもあえて環境だけではなく、心がその本にあたいする状態になるまで待ち続ける。嵐に閉じ込められた港で一瞬の好機を待つ熟練の船乗りのように、その期待を込めた待機の時間もふくめて〝読書〟と呼ぶような、歳月をかけた本との付き合いかたがあってもよいと思うのだ。

それは数年に一度、あるいは十年に一度あるかないかのとても貴重な機会だ。私は読めないと知りながらも本棚に並んだその本の背表紙にそっと視線を送る。ときには手に取ってぱらぱらとめくってみる。そしてそのとき紙が立てたかすかな風を頬にうけて、自らの心に問いかける。たいていの場合、やっぱり今ではない、と断念してもとの場所に収め、また機が熟すのを待つことになるのだが、そのとき頬に受けた風は、蝶の羽ばたきがはるか遠方で竜巻になるというバタフライ効果さながら、精神に吹き荒れている暴風雨にささやかにではあるけれど逆向きのあたたかい風を送り込んでくる。読めなくてもその本がそこにあるということ、それだけで嵐がほんの少しだけ穏やかなものに変わるのだ。

現代社会で生きていれば、私たちは仕事上のストレスや、加齢とともにあきらかになる健康上の気がかり、将来のための蓄え、そうしたことで頭がいっぱいになる。そんなことでは波風のない〝凪いだ精神〟など望むべくもないから、畢竟、この本はいつまでたっても読むことができないのではないか、と絶望的な気持ちになってしまう。しかし、それでも私は心のどこかでその本のことを気にかけていて、慌ただしい日常を生きながらも、精神の凪をねばり強く待ち続ける。常に諦めることをしらない熟練の船乗りの目つきで。

この夏、一冊の本を読み終えた。それは随分昔、郷里から都会にでてきたばかりのころに手に入れた本で、そのころの私は都会の便利さに親しむよりも、まずその喧騒に心の落ち着けどころがわからずに右往左往していた。そんな私が都会に住む利点としてまず知ったのが、さまざまな出版関連のイベントに足を運べるということだった。

生まれつき感性が古いせいなのか、当時から現代のものよりも昔の書物ばかりを渉猟していた私が好きになる作家は、残念ながらもう新作を望めない人物ばかりだったのだが、例外的に新作を待つ幸運に恵まれた作家がひとりいて、私はその作家の出版記念講演に出かけて行った。

今でも街を大きくひとまわりする電車の内回りと外回りのどちらに乗るべきなのか区別できない私は、当時、さまざまに色分けされた線が複雑に交差する都会の路線図に目を回しながら、ようやくのことでその会場となる書店までたどり着いた。それがどこの書店でどんな内容の話だったのかはもう思い出せないのだけれど、作家による話がひととおり終わって帰ろうと思ったとき、書店員から書籍へ署名が貰えると案内された。私はせっかくの機会だからと作家の前に続く列に並んだ。「宛名をいれますので、この紙にお名前を書いてお待ちください」と渡された紙に自分の名前を書いて待っていると、やがて順番がきた。そして本を開いて宛名を書くときに名前の読み方を聞かれたのを覚えている。宛名を書くだけならば読み方など知らなくてもよいはずだから、尋ねられて不思議に思ったのだった。

それから時間はあわただしく過ぎていった。普段遠くからかすかに聞こえる学校のチャイムとか、夕方に町内放送で流れる「ふるさと」のメロディくらいしか人工の音が響かない田舎とは違って、都会での生活は音に埋もれていた。仕事は忙しく毎日深夜まで働くような日々。目まぐるしい毎日のなかでその本は読まれないまま時間が過ぎていった。

それが昨年から流行しだした感染症のために、はからずも自宅にいる時間が増えた。そしてふとした拍子から本棚でずっと、読まれずに並べられていたその本を手に取ったのだった。本当にただの気まぐれだったのだと思う。けれどそれが待ち続けていた船出の時だった。

ページはするするとほどけていった。文字は言葉になり言葉はとどこおることのない流れになって船を押し出していった。気がつくともうずっと出港を待ち続けていたあの岸辺は見えない。そうして本はいつの間にか最後のページになっていた。

ここで月並みにその本を読み終えた感想などを書くことはしないでおきたい。それは、あらためて航路をたどりなおして待ち続けたあの岸辺に戻ることにほかならないから。

あらためて表紙をめくるとその本には日付入りで作家による署名が書かれている。 作家自身の名前のわきに書かれた「2010.3.13」という日付が、私がその本を読むためについやした長い長い待機の時間を現している。