日暮れの音

霜月

十一月もはや三分の一が過ぎて、来月になったら馴染みのお蕎麦屋さんで年越しそばの注文をしなければならない。まったく月日がたつ早さにおどろかされる。

この頃のように気温がさがって空気が乾燥してくると毎日聞いている町の音も変化する。窓の外からひびいてくる急行列車が速度をあげてこの町を通りすぎていく音も、夏のあいだの湿度のたかい空気を通ってつたわってくるものよりも、これからの季節の寒くて乾燥した空気のほうがくぐもりなくひびいてくる。しかし、そんな違いに気がついて季節のうつろいに思いをはせることができるのも気候のおだやかな今のうちに限られていて、寒さがまして冷たく身をきるような風が吹く頃になると、体が芯から冷えて、もう音の変化などに気をとられてはいられなくなる。それでも昨年の今頃には音や気温の変化などにこころをよりそわせる余裕などなかったから、季節の変化をこんなふうに感じられることは、とても幸せなことだと思う。

それはながく勤めた会社を辞めて、転職して数ヶ月がたったある休日のことだった。慣れない環境ではりつめていた緊張をほぐすために私は自然の中に行きたいと思った。転職先は都心のにぎやかなところにあったし、初日からの容赦のない忙しさにどこへいく余裕もなくて、しばらくのあいだ目に入る景色といったら無機質に林立したビル以外になかった。

車が休日の混雑した首都高速を抜けてようやく郊外に出たとき、私は急に視野がせまくなったような気がして運転がこわくなった。すぐにサービスエリアに入って休憩をしたけれど、不安感はとぎれることなく続き、その日はもうどこかに行くことはできそうになかった。同乗していた妻に運転してもらって帰宅はしたのだが、その日から私の精神は世界への親しみをまったく失ってしまった。不意にだれかがあげる大きな声や、沢山の知らない人たちの行き交う道がおそろしくなった。夜眠るときには明日が来ることへの絶望にさいなまれ、朝起きることは恐怖でしかなかった。いま思えば、その時点で仕事を辞めていたのなら、時をおかずに回復することもできたのだろう。しかし私は毎朝、内科で処方された精神安定剤で意識を鈍麻させて仕事へ向かい朦朧としたままで激務をこなした。

それは静かな内爆だった。外殻をやぶることなくその爆風は内へ内へとむかって圧力を高めていった。私の精神はしだいに日常生活に支障をきたすようになっていった。買い物の会計ですらもおそろしくなり、旅にでかけることがなによりも好きだったのに、どこかへ行きたいなんて思えなくなってしまった。いまや世界は享受するめぐみではなくなり、するどいとげのついた拷問器具だった。そんな状態が二年近く続いて、だんだん死を意識する時間が増えていった。ちょうどその頃、半年に一度のほめられているのだか、小言を言われているのだかよくわからない上司との面談があった。それは「誰かに認められなければならない」という価値観が暗黙に強制される耐えがたい時間だった。以前、同僚に、あなたは成果はあげているのにそれをしっかり伝えないから過小評価されるのだ、と言われたことがある。だが私はそんなふうに自分の成果を声高に伝えなければ得られない評価や、そうしなければ人を評価できない会社の構造に疑問を感じていた。あまりにも私が評価されることに無頓着なせいで、周囲の人たちが上司になにかを言ってくれたらしかった。一応はプラスの評価を得て昇給を告げられたのだが、私はその場で退職を申し出ていた。自分の価値を、目減りしないように他者とすり合わせていかなければならないような世界に私は耐えられなくなっていた。

会社を辞めたあとも、私の精神はまったく回復しなかった。あいかわらず世界は拷問器具のようにこころをしめつけ、光や音がおそろしく感じた。まるで五感すべてが恐怖を受信するためのアンテナになったようで、生きていることは苦痛でしかなくなった。まず言葉を発することができなくなり、それから高い場所や長い紐が救いに見えだしたとき、このままではあぶないと思い、ずっとためらっていた精神科を受診したのだった。

診察室で言葉を話す自信がなかったから、医師にはあらかじめ箇条書きにしたメモを渡したのだが、それには一瞥もせずに示されたのはお決まりの治療方針だった。こんなことで治るのだろうかと疑問を感じながらもしばらく通院しているうち、私はどこかで他者に治してもらおうとしている自分に気がついた。医師や抗うつ剤に頼れば、すべて元通りになるのではないか、そんな期待がはじめから間違っていた。そこで得られるものは耐え難い世界を生きるために感覚を鈍らせる麻酔のようなものだった。それに頼って生きるかぎり、私は永遠にこのまま世界を無感動にながめ続けなければならなかった。私にはそれがなによりもおそろしかった。この苦痛は自分で治さなければ終わることがないのだ。そう思って私は通院も薬もきっぱりと止めた。それは決して楽な道のりではなかったけれど、私はそれから少しずつ少しずつ、早起きしてみる朝陽、青空をゆっくり流れてゆく白い雲、夕方の散歩で見る夕焼け、季節のうつろいで変化する町の音、そんなものへの感動を取り戻していった。それは誰かが価値を決めたのではないもの、誰も価値を定めることなどできないものだった。

その頃、繰り返し聴いていた音楽にはこんな言葉が歌われていた。

キミの日に注がれた呪詛
ただ目覚めるだけで消え去り

あの日、突然闇を注がれるようにせばまった私の視野。だが、その闇はたしかに目覚めるだけで消え去っていった。まるで人生の重大なことは生まれながらに定められているかのように錯覚させてくるこの「呪詛」こそ、私の苦痛の正体だった。ただ目覚めれば、そこにはあたりまえの毎日にさえ、あらゆる芸術にもまさる感動があるということが見えるのだ。その歌はまたこのようにもいう。

呪詛は彼岸でなおキミ殺め
戻れぬ過去に見る映画のように

この「呪詛」は彼岸でも私たちをさいなみ続ける。戻れぬ過去の出来事はもう絶対に変えることは出来ず、その結果である現在はその過去に規定されるために、決して私たちの思い通りにはならない。そうして絶望した人々が見る唯一の希望は死後にゆく天国や来世の人生である。私たちはこの「呪詛」に死後まで人質に取られ、現在を生きる意欲さえも奪われている。だがそのような「呪詛」はただ目覚めるだけで消え去るのだ。

それにしても、他者の承認なしには自分の価値を決定することのできない人間集団とはなんといびつなのだろうと思う。人間の本当の生にとって「他者に認められる」ことにどれだけの意味があるのだろう。「誰かに認められる」こととは裏を返せば、その誰かにとって「都合のよい存在」であるということではないだろうか。そのように自分にとって都合のよい人ばかりを評価して、損得で他者を選んでいる人間に気に入られたからといって、いったいそれがなんになるというのだろう。

それに誰かを「認める」という行為には、己の認識の範囲内で相手を規定するという傲慢さを感じる。だがそのような無遠慮な人物に自分という人間の価値を承認してもらいながら生きるうちに、私たちは孤独をおそれるあまり、無意識のうちにその範囲内で他者や集団にとって都合のよい人間としてしか生きられなくなっていく。おそらくこうした状態は無価値な自分に気付くことの恐怖から逃れるために他者へ依存している状態といえるのだろう。だけどそうではなくて、自分という人間がありのままで生きていて、それでも魂から共感できる人に出会うことができたなら、それが本当の人間関係であり人の価値なのだろう。愛情や友情とは、なんの虚栄も虚飾もなく、その人の人間性に感動するような人と人とのむすびつきなのであり、利害や損得とはまったく関係のないものなのである。

人に親切にされたとき、私たちはよくそれを「恩」をうけるという。そしてその親切にしてくれた人へ「恩義」を感じる。私たちはこの「恩義」が親切にしてくれた人への当然の感謝の念だと思っている。しかし「恩義」について辞書を引いてみるとそこには「報いるべき義理のある恩」(『広辞苑』第五版)と書かれている。つまり「恩」とは一種の負債なのである。人間は親切にされれればされただけ「恩義」という負債が貯まっていくというのだ。だが人間の優しさとは本当にそんなものだろうか。私たちが他者に優しさを差し向けるのは、他者の幸せがその人が感じているのとおなじように、私にとっても幸せであるという、ただそれだけの理由ではないだろうか。それは言わば「見返り」や「返済」を要求しない「贈与」なのであって、繰り返しになるけれどもそこには一切の損得勘定は含まれていないのである。

フランスの哲学者ジャック・デリダは「贈与」は「贈与」として認知された時点で「負債」を発生させ、「返済」の循環を作動させるために本当の「贈与」などはありえない、と言っているが、今はひとまず、そのような哲学的な命題はわきに置いて、私たち人間の優しさとは「恩」の売り買いで変動する資産や負債ではないはずだと言いたい。恩義という負債にからめ取られて返済にくるしみながら終わっていく人生とはいったいなんであろうか。見返りを要求される人間関係など早急に断ち切らねばならない。誰かに認められるまでもなく、あなたはあなたであり、私は私なのだ。

あらたな仕事を見つけて、私はばらばらに壊れた生活をあらためて組み立て直していった。それは目標に向かう意思のある道のりというよりも、生まれながらにそよいでいた柔らかな風に気がつくように、少しずつ、なんの力みもなく自然な自分に戻ってゆく足取りだった。