日暮れの音

木をくぐる

仕事からの帰り道、職場を出て交差点を渡ったところに一本の大きな木がある。特別に理由があるわけではないけれど、朝にはいつも別の道を通るから、その木の下を通るのは帰り道に限られていた。

その木はコンクリートとアスファルトが地表の大半を占める無機質な街には不釣り合いに、枝が道に張りだして葉っぱが空を覆うとても立派な木なのだが、私はこの木の下をくぐるとき、いつも、なんとなく帰路の自分の気持ちがほっと切り替わるような気がして、その一本の木の下をまるで鎮守の杜に足を踏み入れるような慎重さで恭しくくぐるのだった。

どれほど前からここに立っているのだろう? 私の毎日など一瞬のように、木はもうずっと長いあいだそこに立っているのだろう。気がつけばこの木にだってたくさんいたのだろう蝉の声もきかなくなり、空には重なりあった葉を通して、見ようとしなければ存在すらも忘れてしまいがちな、秋の月明かりが街の光に紛れて見えていた。

ただ繰り返しているだけのような毎日も、確実に過ぎてゆく。わずかに残る夏の余韻が次第に消えて秋の気配が増してくると、毎年のようにそんなことを考える自分がいる。誰に約束したわけでもなく、義務でなどあろうはずもない人間としての成長などというものを、暑さがひと段落したあとで考えてみたくなるようなのだ。それは会社で上司にいわれる「成長」とは本質的に別のものである。

十代に身体の成長期の終わりがあるのなら、人間としての成長の終わりはいつなのだろう。ずっと足踏みばかりして停滞しているような己の成長を鑑みるとき、私はむなしくなる気持ちを抑えて、身近な人たち、それからすでに世を去った大切な人々のことを考える。前に進んでいる実感がなくても、現在にも過去にもこうして誰かに親しみを注いでもらったという事実が、それだけで生きている意味になり得るはずだ。

そして木の年輪のように少しずつ、などと陳腐な表現でお茶を濁して、私は帰り道をまた歩き始めるのだった。