日暮れの音

愛情について

他者が自分に向けてくれた親しみや、思いやりが、あとから考えてみれば疑いないようのないものだったとしても、その恩恵を受けた時点ではそれに気づかずに過ごしてしまうということが私たちにはよくある。感謝の多くはあとになって、もう伝えるすべが失われたという時になってやってくる。

だが、それとても結局は気づくことのできた一部に過ぎないのだろう。この世のすべてが感謝に価するなどという性善説を語るつもりは毛頭ないけれど、自分に親しみをそそいでくれる人が誰にだってひとりもいないということはない。それならば結局、愛情とは自らが他者に与える能動的なたぐいのものではなくて、相手が自分に対して抱いてくれる親しみを感じとる極めて受動的な能力なのではないか。

相手によって態度を変えることのないひとと接していても、そのひとから受ける印象は受け取る側によって随分違う。自分が好感を抱いているひとの陰口を思わぬところで耳にすることだってある。

だからあの娘はだめなのよ。ずっと昔、そういって他者を批判ばかりしているひとがいた。矛先にされた相手は私と親しく、おおらかで仕事もしっかりこなすひとだったから、私はこの「だから」には同意しかねたのだが、批判した当人は誰からも賛同を得ることが確実な事実のように述べていた。

なにが彼女をそこまで否定的にするのか不思議だった。今になって考えてみると、彼女は決して他者に心を開かないひとだった。彼女がなにを求めているのか、なにを嬉しいと思うのか、周りにいた私達は誰も分からなかったのだ。

思えば彼女はいつもまわりの評価を気にかけていた。頭のよいひとだったから子どものころから成績も優秀で、褒められることが当たり前だったのだろう。普段の仕事も模範的といってよかった。だが、そのことがかえって彼女の本心を私達から隠していた。

褒められるための行いというのは言わばあまりリスクのない行為である。そこには他者への思いやりも倫理観もない。戦争で人殺しが正当化されるのはまさにこうした価値観のゆえだろう。

示された親しさには本心で喜ぶ。万物に感謝とか、自分を捨ててとか、そんな宗教的な尺度ではなくて、他者のそそいでくれた親しみに素直に感謝してみること。愛情とはとりあえずそのくらいのことから始めてみればよいのではないか。