日暮れの音

生きている文字

須賀敦子のエッセイに『塩一トンの読書』という作品がある。教科書にも載っているから読んだことのあるひとも多いかもしれない。

その中で須賀さんは、一トンの塩を一緒に舐めるほどの長い時間をともに過ごしたものでなければ、本当に相手のことを理解することはできない。読書もそれに似て、一冊の本を本当に理解するには長い時間が必要だ、と語るのだが、最近このことを本当に強く感じる。

もとより、あまり多くの本を読んだとはいえない自分の浅学と理解力のなさは承知の上なのだが、沢山の本を読んでいる人に出会っても、この一冊が自分の人生にとって、かけがえのない一冊だ、という本を持っている人にはかなわないな、と思う。

辻邦生はパリ留学時代、プルーストの『失われた時を求めて』を身体を擦り付けるようにして読んだという。その経験がのちの素晴らしい作品を生んだことは間違いない。

どこで読んだのか忘れてしまったけれど以前、体験と経験の違いについて、このような文章を読んだことがある。

体験はその場にいる全員が等しく得るが、経験はそれを体験した個人が自己の中で醸成していくことでしか生まれない。

読書というものもきっと同じなのだろう。知識を吸収するための情報としか考えない人にとっては本はやはり、ただの文字の羅列でしかない。だけど一冊の本を経験として読むとき、その読書は本当に生きたものになる。

活字の語源は活版印刷の文字が、一度だけで使い捨てられることのない、活きた文字だからと聞いたことがあるけれど、ひとつづりの言葉、一節の文、一冊の本が、その人の人生の中で繰り返し繰り返し、何度も反復されるとき、そんなときにこそ文字はきっと本当に生き生きとした活字になるのだ。