日暮れの音

午前三時の自省録

いったい私は人生の苦しい季節をどうやって乗り越えてきたのだろう。今よりつらいことは沢山あったはずなのに、それらはすっかり遠い出来事で、思い出せるのはそういった苦労の実感がすっかり抜け落ちたあとのこんなことがあった、という思い出だけだ。

人はいつだって今直面している問題に頭を悩ませ、ときには心をわずらいながら生きている。だとしても私たちにとって問題になるのはそんな現実の方ではなくて、今現在のこの状況なのだ。

人は長い困難が続くと、ありのままの世界を理解しようという意欲を失い、認識の方を自分の都合に合わせてねじ曲げてしまう。しかしそれはアルコールで愉快になった者が翌朝絶望とともに眼を覚ますのに似て、現実世界のなに一つとして変える力を持たないまやかしに過ぎない。

己の正しさの証明に明け暮れる者たちは、既にどこかで認識がねじ曲がった酔い潰れた者たちだ。正しさとはドアの錠がいつでも唯一の鍵で開くような、そのような固定的なものではなくて、昨日開けることのできた鍵が今日は何の役にも立たない、といった類のものだから。ならば私たちに可能なのは模範解答を見つけることなのではなくて、むしろ誤ちをひとつずつ認めてゆくことなのだろう。どうやらそこに人の恐怖の根源があるのではないか。

なにもかもを肯定するような一見前向きな仕方ではなくて、すべてを「……ではない」という否定形で語らなければ表現できないなにかがたしかにあって、それが実は現実世界を表現する唯一の方法であるというよりも、むしろ「私自身」がそうであるということに、我々の足場は大きく揺らぐ。

「私は……である」ではなくて「私は……ではない」と言い尽くしていくことでしか、どうやら本当のアイデンティティは見えてこないものなのだろう。

私たちは敗北しても、打ちのめされても、逃げ出しても、この現実に対してはシラフでいなければならない。もしも今、心を恐怖が支配するならば、それは私たちが現実に立ち向かっているということのなによりの証なのだ。