日暮れの音

常夜灯の影

午後になると窓辺にもほとんど陽の入らない東向きの我が家にも、空に薄い雲が広がった日には雲で太陽の光が拡散されるのか、淡い光が差し込んでくる。そんな時、窓際に立って日照不足でひょろひょろと頼りなげに育ったベランダの草花が、風に揺れる様子をぼんやりと眺めていると、なぜか不意に幼いころの記憶がよみがえってくる。

小さなころ、夜になって眠るとき、暗闇以上にオレンジ色の常夜灯が恐ろしかった。薄明かりの中の両親の寝顔はまだ幼い私に、それとは分からずに死を意識させたし、もしおばけが出るとしたら、なにも見えない暗闇よりも、むしろこんな光のもとなのではないかと思った。目を閉じてもまぶたの裏に見えるあの赤みのある光は、眠気よりも恐怖を連れてきて、夜が明けて朝が来ることは、なにか信じ難い奇跡が起こらぬかぎり、あり得ないことのように思われた。

大人になって今、私は毎日、あまりにも簡単にやってくる明日に戸惑うばかりだ。

朝が来ないかもしれないとおびえていた幼いころのいわれもないその恐怖は、大人になると明日を迎えることへの恐怖に取って代わった。毎朝人の隙間で身動きもできないような混雑した通勤電車に乗っていると、身体ばかりか精神までもが深海魚みたいにつぶれて奇怪なていをなし、私は小さなパニックにみまわれた。

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。
(『生きがいについて』神谷美恵子/みすず書房)

神谷美恵子のこのような言葉を己に当てはめるには、自分は恵まれている人間だと思った。ただ生きているという、その当たり前のことが充分に私を幸せにしてくれたのだから。

だから私にとっての幸福がどんなものであるのか、知りもしない世の中が、もっともっとと過剰な幸福を求めるように強いてきて、そうしなければ現代人として生きている価値がないというような、どこかから強要される幻想が私には怖かった。

梅雨がきて湿度の高いこのごろの空気は、故郷ではちょうど咲き出した庭先の紫陽花の色に似て、明るさはないけれど水中に沈み込んでいくような深みが感じられた。だが都心の街を歩いているとエアコンの室外機から無遠慮に吹いてくる風や、幹線道路を猛スピードで走っていく車の排気ガスにまみれていて、気分までも重くなってくる。

テントと寝袋だけを持って、この道をただひたすら歩いて行きたい、と思う。この無機質さと騒音の途切れる場所まで歩いて行きたい。電車も街も、あたり中が広告だらけで、不安と欲望とを巧妙に刺激してくる。それらに植えつけられた成功のイメージが、幸福と自由とを連れ去ってしまう。

言葉は意味を亡くしながら、主語は守護、述語は術後、相槌だらけの会話の界隈で、かいわれ大根が育ち始める。

電車の席に置き去りにされたボールペン。オマヘハなにを書くはずだったのか。お前に塗り潰された闇に私の身体は病み、やまない雨が、生まれたばかりのような鼓膜に響く。それはいつかの、日暮れの音。