待つこと
だれかに電話や来客を取り次いだあと、本当なら自身の役目はそこで終わったと考えてもよいはずなのだが、その人物がちょうど折あしく、なかなか対応できずにいたり、あるいは準備に手間取っていていつまでも動く気配がなかったりすると、どうしてもやきもきしてしまう。どうやら誰かを待たせている、という状態にひどくストレスを感じるようなのだ。
よく考えてみるとそれは、なにも他者の介在は大きな要因ではないらしい。なにか現時点では決断することの出来ない選択肢があったりすると、私はいつも本来見なければならない本筋から目をそらして、横目でそちらばかりをうかがってしまう。それはまるで飛蚊症の残像のように視界の隅でいつまでも消えず、私をまた誰かを待たせているような焦燥感で苛むのだった。
――保留。それは電話の相手を待たせるときの表現であり、またその場での判断を先延ばしにする、という意味でも使われる言葉である。判断の先延ばし、つまりなにかが不確定のまま未来に受け渡されていくこと。この在り方は最終的な決断を下すまで、未来の自分を「待たせている」といえるのではないか。
脳は視覚や聴覚、あらゆる器官からやってくる感覚の正体を瞬間ごとに判断している。無意識のうちにされるそうした判断が「認識」というのだとすれば、そうした「認識」の仕組みにうまく捉えきれなかったものごとは、私たちをまるで幽霊でも見たかのように、不安な気持ちにさせる。
選択を未来に委ねること、あくまでも現状からは得るこのとできない答えを待ち続けること。それは、いわば幽霊の不気味さをともなって私たちを悩ませるのだ。
判断の先延ばしは、多くの場合、停滞を想起させて消極的で無駄な時間だとしりぞけられてしまうけれど、神谷美恵子は著書『生きがいについて』の中で「待つこと」について、このように述べている。
待つというのは未来にむかっている姿勢である。向きさえ、あるべき方向にむかっていればよい。
停滞を恐れてあらぬ方向へ進むのではなく、立ち止まっていてもあるべき方向をむいていること。安易な答えに逃げるのはたやすい。むしろ恐怖を押し殺して待つという苦難を引き受けるとき、我々は今まで気づくことのなかった新たな情景に出会う。そのときがくれば、答えはむしろあまり重要ではないのかもしれない。
選択の岐路に立たされたまま、どちらを選ぶ決心もつかずに保留を続けてしまう心を優柔不断などと卑下したりせず、それが必要な時間だったと考えてみてもよいのではないか。結局はどこかで決断をしてしまうそのタイミングこそが選んだ結果などよりも、そのひとの個性をあらわし、そのひとをかたち作っているのだ。
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