日暮れの音

唄声のする方へ

文治二(一一八六)年、東大寺大勧進職にあった重源の頼みを受けて、西行は奥州へと旅に出た。当時、荒廃していた東大寺を再建するための勧進が目的だった。若い頃から諸国を巡っていた西行にとって、奥州へ向かう旅は二度目だったのだが、すでに六九歳になっていた西行にとって、その年齢でほとんど未開といってもよい奥州への道を歩きとおすのは、容易なことではなかった。
老いた身で難所の峠を越えていく心境を、彼はこのような歌に残している。

年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

年老いた今、またこのように旅にでて、再びこの小夜の中山(現在の静岡県掛川市佐夜)を越えることができるとは思いもしなかった。命があればこそだ。

この歌には彼のそうした命への感謝があふれていて、それは旅の道のりというよりも、まるで西行が己の長かった人生を振り返っているかのようでもある。

西行が生きたのは一一一八年から一一九〇年、つまり平安時代末期から鎌倉時代初期にあたるのだが、その時代には琵琶の伴奏に合わせて語る盲目の僧、いわゆる琵琶法師が活躍していた。彼らは宗教者として、現代まで続く『平家物語』を語り継いだが、一方で室町時代に入ると、純粋な芸としての語りをする一団が現われた。その一団は女性を主体とし、瞽女(ごぜ)と呼ばれた。

彼女たちは村から村へと旅をして三味線を響かせながら唄い、その報酬として米や金銭を受け取った。娯楽のなかった時代、村の者たちは瞽女を心待ちにしていて、自分たちの村へやってくると温かく迎え入れ、宿を提供して彼女たちの唄に聞き入った。

琵琶法師と同じく瞽女の多くは盲目だったから、旅をするときには先導する「手引き」の肩に手を置いて歩いた。アスファルトで舗装された車道などあるはずもない時代に、年老いたとはいえ目が見える西行でも大変だった道を、目の見えない彼女たちがどのようにして歩いていたというのだろう。

二〇世紀に入っても、五〇年代なかばになって道路の整備が進められるまでは、日本の道はまだまだ西行の時代とさして変わらなかった。瞽女たちは昔と変わらずに手引きにつかまって山道を歩いていた。しかし戦後になるとそれまでの停滞を取り戻すみたいに、日本は慌ただしく変化をはじめた。時代は彼女たちを振り落とすように急激に進みはじめた。

旅の最中、宿を提供してくれていた地主たちが農地改革で土地を失うと彼女たちの旅はきわめて困難なものになった。そして当時普及しはじめたテレビが娯楽としての彼女たちの役割を急速に奪っていった。かつて、どこの村でも鳴り響いていた瞽女唄は、もうほとんど聞こえなくなってしまった。彼女たちはまるで、長いあいだ季節を問わず消えることのなかった山頂の雪が、温暖化のために解けていくみたいに、あっという間に姿を消してしまった。

鉄の道が土地と土地を縫いつけるように縦横無尽にはり巡らされて、車も広く普及した現代、彼女たちの唄声の余韻すら完全に消えてしまったような平成に、最後の瞽女と呼ばれた女性がほんの十数年前まで生きていた。彼女の名前は小林ハル。

明治三三(一九〇〇)年、彼女が生まれたのは新潟の裕福な農家で、小作人や使用人もいて、本来はなに不自由のない家だったのだが、生後一〇〇日で視力を失った彼女を家族は重荷に感じていて、幼いハルは兄や姉が楽しそうに遊んでいるときにでも、ひとり寝間におかれて「お前はいい子だから寝間でおとなしくしているんだぞ。『ハル』と呼ばれなかったら声を出すんでないよ」と教えられた。

目の見えない娘を不憫に思い、かわいがっていた父親が早くに他界すると、代わって家のことを取り仕切った大叔父は、ハルを瞽女として生きていかせることにした。当時視力を持たない者は按摩か瞽女になるしかなかったから、この選択は必然でもあったのだが、このことが、のちに彼女がその人生で引き受けなければならなかった不運をすべて、決定づけてしまった。

ハルは五歳になると針に糸を通すことから着物のほどき方まで、身のまわりのことはなんでも自分でできるようにと、母親にきびしく躾けられた。七歳で本格的に瞽女として生きる訓練がはじまると、三味線の弦をおさえる指先は切れて痛み、寒空の下で何時間にもわたって声を出し続ける訓練のせいで、喉からは血が出た。まだ幼い彼女のかぼそい息づかいは、冬の冷たい空気のなかに白く広がって空気を振動させながら凍りついて、あとからあとから地面に落ちていった。

八歳の冬に初めての巡業に出て、十歳になると八十里越と呼ばれる険しい峠を越えて会津へと向かった。その時の思い出を晩年の彼女はこう語っている。

 八十里峠は、本当は八里しかないんだが、あんまりひどい難所なので、歩くのに普通の十倍もかかるといわれた。私たちのように目の見えない者は、一日に一里か二里しか歩かれない。
 子どもに重い荷物をかつがせて、親方は、
「おまえはろくに唄もうたえないし、目だって見えない。そういうものは馬の代わりだ」
 という。その時は子ども心に悲しかった。ものはいいようで、「おまえ、荷物を担いでいけば丈夫になるからな」といってくれるならいいのに。

重い荷物をかつがされた身体の小さな彼女が、手引きにつかまって足の裏の感覚だけで八十里越を歩いていくのは、どれほどの困難だっただろう。行く先々で村のひとびとは、まだ幼い彼女に親切に接してくれたけれど、親方は機嫌をそこねると、ハルを道に置き去りにして先に行ってしまい、彼女はそこで村人が通りかかって助けてくれるまで、一晩過ごさなくてはならなかった。

それでもハルは瞽女をやめようとは思わなかった。
「私が今、明るい目をもらってこれなかったのは、前の世で悪いことをしてきたからなんだ。だから今、どんなに苦しい勤めをしても、次の世には虫になってもいい。明るい目さえもらってこれればそれでいい」

ほとんど生まれつきの宿命のように闇を凝視しながら、彼女はその先に懸命に光を求めていた。

だが、大人になり自らが親方となってからも、ハルの人生は苦労ばかりだった。弟子には自分の幼いときのような思いはさせまいと、家族同様に接したが、その優しさが、また彼女を苦しめることになった。

弟子のひとりが結婚するのを期に、ハルは彼女を養女として若い夫婦と一緒に暮らし始めたのだが、夫の按摩師は家を建てる費用をハルに出させたうえ、彼女の日々の稼ぎまで巻き上げた。

ある日、按摩師は妾とのあいだにできたキミという子どもを連れてきて、瞽女として働かせろ、といった。子どもは一四、一五歳になっていたけれど、瞽女としての修行はしたことがなかったから、ハルは彼女を手引きとして、ふたりで仕事にでかけた。

夏も冬も、どんなに体調の悪い日であろうと、ふたりはろくな食事も与えられずに仕事をした。足にしもやけができても、まめがつぶれても、休むことは許されなかった。

そんな過酷な生活が九年続いたころ、按摩師が病を得て動くことができなくなった。追われる心配がなくなったハルはキミを連れて家を出ることにした。ふたりは一軒の空き家を見つけてそこに落ち着くと、畑を耕して作物を作り、お互いをいたわりあうように暮らした。

ハルは年頃になったキミに婿をもらいたいと考えていたが、周囲の者は「おまえの家は、ばあちゃんが盲だし、ばあちゃんを養老院にやらないうちは、来る婿なんていない」と噂した。それでもキミは「人がどんなこといったって、おらはばあちゃんを養老院になんかやるようなことはしない」といってくれた。幼い頃から家族の愛情を感じることのなかったハルにとっては、この言葉はなによりも嬉しい言葉だったに違いない。

やがて縁があって婿をもらうことができ、キミには三人の子が生まれた。しかしキミの夫は根は真面目だが仕事が長続きせず、家で寝てばかりいた。彼はそのうちに周りの者のいうハルの悪口を間に受けるようになり、うまくいかないのは家に盲がいるせいだ、と言った。そしてキミまでが、夫の言葉に同調してハルを邪魔者扱いし始めた。

その人生の長い時間、自分が耐えればよいことはいくらでも耐え忍んできたハルも、キミ夫婦に邪魔者扱いされて、自ら養老院に入ることを決断するしかなかった。彼女はひとり家を出て役所にゆき、養老院に入りたい、と告げた。

数年間を養老院で過ごしたあと、ハルは七七歳で養護盲老人ホーム、胎内やすらぎの家へと移り、そこで一〇五歳まで、最後の時間を過ごした。やすらぎの家の人々は皆親切で、彼女はようやくささやかな幸福を感じることができた。

現在、胎内やすらぎの家には資料館が併設されていて、小林ハルの資料を見ることができる。そこに晩年のハルを捉えた一枚の写真があって、私は初めてその写真を目にしたとき、その前から動けなくなってしまった。それはかつて瞽女として、自らが歩いた峠道にひとりたたずむ小林ハルの姿を写した白黒の写真なのだが、その時、長かった人生を振り返る彼女の心にあったのはどんな感情だったのだろう。

その姿には不幸をなげくような弱々しさは微塵も感じられなかった。ただ、言い尽くせぬ苦難を強いられてきた人生を、その足で決然とあるき通してきた人間の力強さと、どこか、なつかしい道にたいする親しみのような温かさが感じられた。その温かさは、晩年の西行が最後の旅の途上で感じた、自らの命を愛おしむような感情と、きっと同質のものだったのだと思う。

(引用『後の瞽女―小林ハルの人生』桐生 清次/文芸社より)