日暮れの音

「それでも」と唱えてみること

小学生のころ、学校の図書室にあった偉人たちの伝記を読んでいて、ガリレオ・ガリレイの残したある言葉を知り、深い感銘を受けた。あとになって現実のガリレオは、この台詞を言っていないことを知ってがっかりしたけれど、それでもこの言葉を思い出すたびに、あのころの自分が、いまここにいる自分と、まちがいなくつながっている、という感じがする。

集団登下校、クラス、赤組、白組――よくもわるくもおおぜいの友人たちとひとまとまりの機能をもとめられる学校という場所で、運動能力抜群のKくんや、テストではかならず100点をとるYさんのように、秀でた特徴のない私は、いわれたことをぎりぎりの及第点でなんとかこなす、先生たちにとってみれば印象のうすい生徒だっただろう。

家庭においても、末っ子だった私は年の離れた兄たちのすでに体験したことを毎日、遅れて追体験しているだけ、そんな気がして、ある出来事にこれはこうではないか、という自分の考えがあったとしても、その出来事には兄たちの失敗や成功も含めて、もっとも効率のよい解決方法が用意されていて、まるで毎日医者の出す処方箋にしたがって薬を飲むみたいに、その方法をなぞっているに過ぎなかった。

自分自身というものは一度わからなくなりはじめると、いま考えていることが自ら考えたものなのか、誰かから与えられたものなのかも曖昧になってくる。そのうちに私はあまりなにも考えないようになっていった。

ガリレオの生きた時代、16~17世紀には教会が大きな権威を持っていて、科学は神の御業のまえに無力だった。世界は神の被造物であり、不動の大地を中心にして天が回っているとされた。

だが、ガリレオが望遠鏡によって観測した事実は大地が動いていることを裏付けるものばかりだった。ガリレオはこの事実を発表するが、教会は彼を異端審問にかけ有罪と判定した。その時、ガリレオはこう言った。

――それでも地球は回っている。

この「それでも」というありふれた接続詞が、当時、自分自身を見失いはじめていた私に、なにか魔法のような効用を持って響き、むなしい日々が急に希望に満たされたような気がした。

それからの日々も外面上は特になにも変わらなかったけれど、私はいつも心の中で「それでも」と唱えることができた。それだけで天動説を主張する教会に真理を諭す偉人のような気持ちになり、自分の秘めた価値観に誇りを持つことが出来たのだった。

なにかが劇的に変わるのではない、だが「それでも」と心の中で唱えてみること、それだけで世界が回り出すこともあるのだ。