日暮れの音

言葉の落葉

毎日、午後四時になると祖父は風呂を焚きをはじめ、それからテレビをつけて時代劇、あるいは相撲中継を見はじめるのが常だった。お奉行の名裁きや副将軍の印籠が出るころになると祖母がつくった夕飯がならび、それをつみまながら、かならずコップ一杯ときまった酒を、夏ならば冷で、冬ならば燗で飲んだ。

一日の農作業のあとで、それがどれだけ幸せな時間だったのだろう。幼心にうまそうに酒を飲む祖父の姿にあこがれたものだが、結局成人してのちも私は酒を飲めるようにはならなかった。

六時になると自ら沸かした風呂に入り、七時前には床につくと、きっかり三〇分、襖をへだてて大きないびきが聞こえて、それから静かな寝息に変わった。

祖父が風呂に入ると私は祖母とお茶を飲みながら一、二時間ほどのあいだの両親が帰るまでの時間を一緒に過ごした。

いったいなにを話していたのだろう。夕飯時の祖父の姿はいくらでも思い出せるのに、そのあと祖母とした会話はあまり思い出すことができない。けれどその覚えていないことが、きっと今の自分に大きく影響しているという気がする。

忙しくて目が回りそうだったある日、郷里から入った連絡は、祖母の体力の低下を知らせるものだった。体調をくずして入院が長びいていた祖母の様子を、私は折にふれてたずねてはいたけれど、心配になる内容は一度もなかった。

だから、今すぐにということはないが、というただし書きつきの報せで覚悟を求められたとき、入院の連絡のあとで、すぐに帰らなかったことをどれだけ後悔しただろう。

そのころ、私は忙しさで目眩のするような日々に翻弄されるばかりで、自分にとってなにが本当に大切にしたいことなのか、わからなくなっていた。目のまえにあるすべてが、なにかひとつの間違いで壊れてしまいそうな脆いものに思えて、それをひとつも壊さないようにと、ただ自分をそこないながら暮らしていた。

それは正しい答えがないはずの人生に、正解の近似値のようなものを求めながら、とにかく間違いのないようにと強迫観念をいだき、次の一歩の着地点を慎重に見さだめながら、結局どちらにも踏み出せずに時間だけがすぎていくような毎日だった。

私はむりやりに仕事を切り上げて新幹線に乗った。いつもなら見慣れた景色が近づいてくるのを車窓から眺めたものだが、その日、窓枠に切り取られて流れていく景色はほとんど目に入らなかった。

病室で祖母は、ほとんど声にならない声で私に「お茶飲むかい」と言った。それは幼いころからずっと私を待っていた言葉だった。同級生と遊んで帰宅したとき、季節ごとの帰省をしたとき、かならずこの言葉で祖母は私を迎えた。私は、ほとんど動かない体を起こそうとする祖母を制し、ありがとう、大丈夫だよ、と言った。

祖母はそれから数日後に亡くなった。一度帰宅していた私は危篤の報せを受けて、新幹線に飛び乗った。駅から病院まで乗ったタクシーの運転手は、あわてて病院の名を告げる私を見て、なにかを察したらしく、普段なら通ることのなさそうな、ほそい裏道を抜けて近道をし、乗車料金から端数を切り捨ててくれた。今考えればそれだけ私は憔悴していたのだろう。

到着を待っていたように、祖母は私を見ると音にならない言葉を発し、それから一五分後に亡くなった。私は最後にかける言葉を探しながら、ただ、ありがとう、としかいえなかった。

幼いころから私を待っていた言葉は消えてしまった。だが、毎晩の記憶に残らないささいな会話が、落葉の散り敷かれた地面の下の腐葉土みたいに、もとの形はわからなくても、たしかに今も存在している。

落葉が腐葉土に分解されて樹木を育てていくように、記憶から散って行った言葉に育まれることが、ひとの一生にはきっとあるはずだ。