日暮れの音

繰り返しの反復

広大な団地が計画にそって一区画ずつ取りこわされていくのを、このまちに引っ越してからというものずっと横目に過ごしてきた。

多くのひとが新しく建て替えられたきれいな建物にうつり住んだあとの、無人になった団地は近くを通り過ぎると、過ぎ去った時代の名残りのような気配をしずかにただよわせていた。

それは名残りというよりも、団地を出た人びとが残していった過去が醗酵して発っする、微熱のようなものだったかもしれない。

ある日、夜明けまえに目がさめてしまい、それからどうしても寝つくことができなかった。しかたなく起きてカーテンをひらき窓の外をみると、うっすらと明けだした空の下に、幾何学的な影を投げかけて、まるで古代遺跡のように、どこまでも続いていく無人の団地がみえていた。もう一度眠りにつくことはあきらめて、私はそとに出て団地に向かって歩いていった。

そこには数十年のあいだに堆積した人びとの生活の匂いが充満していた。それは無機質なはずのコンクリートの壁にまで染み込んで複雑に折りかさなり、団地のいたるところで宙吊りになったまま時間を止めていた。強い風がふけば、それらはかつてのにぎわいを音を立てて語り出しそうな気がした。

夜明けまえの青い薄明にうかびあがる誰もいない団地を、端まで歩いてふりかえると、のぼりはじめた太陽に照らされてカーテンのない窓ガラスが鈍く輝いていた。

明け方にしたこのとめどもない散歩が、いつの季節のことだったかは覚えていないけれど、暑かったり寒かったりしたという記憶はないから、春か秋のことだったのかもしれない。

八月になると、ついに残されたさいごの区画も工事用の壁に囲われはじめた。それは平成の最後の夏に、かろうじて取り残されていた昭和の残光が没していく景色だった。

最後の区画が壁に囲まれる少しまえ、無人街を歩いていると、団地の棟と棟のあいだを縫うようにして通るせまい路地があつまって出来た広場に、大きな欅の木が生えているのが目に入った。その下にはベンチがふたつ、並んで置かれていた。

ベンチのうえに欅は葉を広げて、おそらくは何十年というあいだそうしてきたのだろう。ここちのよい葉音をたてながら、柔らかな木陰をつくっていた。歩き疲れた私は強い日差しを避けようとベンチに腰かけた。

その瞬間、一本の樹木からとは思えないほど、にぎやかな蝉しぐれが降りそそいできた。団地の壁にはつたが這い、花壇にはさまざまな草が繁茂していた。ひとがいなくなったまちで、自然は静かに、力強く息づいていた。

花壇の雑草のすきまから猫がこちらをのぞいていた。目が合うと猫はこちらへやってきて足もとに座った。私を見あげる猫はわずかに顔をまえにつき出して、なでてもらおうとしているみたいだった。

野良猫は警戒心が強くて、ひとが近づくことさえも嫌がるから、この猫はきっとここに住む誰かから食べものをもらっていたのだろう。一瞬、ちょこんとつき出た耳のあいだの柔らかそうなあたまをなでようとして、手が止まる。

かえってくることのない誰かを待つ彼に、私もまた、ふたたび会いに来ることはかなわない。そう思うと、どうしても手が前に出なかった。

ひとつのまちができ、やがて消えていく。いったい古代からどれほど繰り返してきたことなのだろうと、ふと思う。

しかし重要なのは、それが繰り返しの中で変化していくということだ。一過性の変化を求めれば、それは破滅的な地底の力に頼ることと同じだろう。

この星の誕生から絶え間なくおなじ運動を繰り返し、次第に地形をけずり取ってきた波のように、ながい反復運動の果てに気づかぬほど些細なものからなにかが変わってゆく。ながい歴史も、ひとりの人間の一生も、おそらくはそうした反復運動の集積なのだ。

後日、近くを通りかかると、立入禁止の立札とロープに遮られて欅とベンチが見えた。そこにあの猫の姿はなかったけれど、おおきな欅からは変わらない葉音とにぎやかな蝉しぐれが聞こえていた。