日暮れの音

たちょーしんの骨

あさから本を読むのに夢中になっていて昼間に急にねむけを感じたとき、本来ならコーヒーをいれるべきなのだろうけれど、豆をひいたりお湯をそそいだりするのがめんどうになってしまい、いつもより茶葉をふやした渋めのお茶で代わりにする。

それでとりあえずはカフェインを摂取したきもちになって、またふせておいた本をもち上げるのだが、それから数行読むうちに、ふと昨日までのんでいた色ばかり出てかおりのないお茶とちがうことに気がついて、台所にひき返して茶葉のパッケージを確認してみる。

パッケージには大和茶と書かれていて、いつのことだったかおとずれた奈良のきゅう坂に広がる茶ばたけを思い出す私の脳裏に「たちょーしんの骨」のことが浮かんでくる。

1979年、奈良市のある茶ばたけでお茶の樹を植え替える作業中にちいさな骨が発見された。それは木びつに収められて灰と炭でねんいりに防腐処理されたうえ、文字をほった銅版がそえられていた。銅板からかろうじてよみとれたのは「太朝臣」という文字――たちょーしん。

発見者によって「たちょーしんの骨」と名付けられたこのちいさな発見は、のちの鑑定によって太朝臣安萬呂(おおあそみやすまろ)すなわち『古事記』の編纂者、太安万侶(おお の やすまろ)の遺骨だと判明する。

ながらく存在そのものをうたがう声もあった太安万侶の実在は、この茶ばたけから現れたちいさな骨によって証明されたのだった。

――オオニイマスミシリツヒコジンジャ(多坐弥志理都比古神社)

一度目にしたものはなんでも記憶してしまうという古事記のかたりべ、稗田阿礼(ひえだ の あれ)は例外としても、かんたんにそらんじることを拒否しているような、このながい名前の神社に太安万侶がまつられている。

神社の名にある「多」とはつまり、多氏にゆかりのある神社ということなのだが、代々〝多〟を名乗ってきた一族にあって、なぜ太安万侶が自らに〝太〟の字をあてていたのかについては現在もなぞのままだ。彼の先祖も子孫も〝多〟を名乗っているから、一代かぎりの改名ということになる。

『古事記』は稗田阿礼の語ることばを太安万侶が「書き残した」といえば、はなしは簡単だけれど、文字の文化が未発達だった当時、文章はすべて漢文によるものだった。

二十五年がたっても生き生きしている阿礼のことばを書き残すには、感情をそぎ落として意味だけを抽出する漢文では無理だとさとった太安万侶は、なんとか生きたことばでつづろうと腐心する。

漢字の訓だけで綴ると真意が伝わりません。
音だけで綴ると長くなるばかり。
そこで、この書では、
ある場合は一句の中で音と訓を混ぜて用い、
ある場合は訓だけで記すことに致しました。

晩年、やまいを得て半身不随となった夫のことばを丁寧にうつしとった武田百合子が、夫、武田泰淳の七七日忌をむかえて、彼が生前、完成した本を手にしたときのことを次のように回想している。

「改行。カギカッコして――」口述のときの低い乾いた声を、ついさっきまで聞いていたような気がします。いつのまにか書きたまって一冊の本になりました時「していなくては駄目なんだなあ。していれば一冊の本になることもあるなあ」と、両手で出来上がった本を持って、嬉しそうに、はずかしそうに、自戒するように洩らしました。

私生活においても手足になることをつとめざる負えなかった、夫婦という関係性が前提にあるとはいえ、彼女のことばをうつしとる感性に深く支えられた作業だったことはまちがいない。

ことばを語ったとき、すでに当時としては高齢の60歳だった稗田阿礼に、太安万侶は完成した『古事記』を手渡すことができたのだろうか。彼がなんとか生きたままでとどめようとした稗田阿礼のことばを、彼女の両手に持たせることができたのだろうか。

没年の不明な稗田阿礼が『古事記』の完成に立ち会ったという証拠はないけれど、人間ばなれした記憶力を持っていたくらいだから、寿命のほうも、すこしくらい人間ばなれしていてもよいのではないか、とおもう。

引用1:『古事記』序(池澤夏樹 訳)
引用2:『あの頃』(武田百合子 著)