日暮れの音

本と私

獅子文六の本がちくま文庫から立て続けに復刊されて人気になっている。それで10代のころ、ほとんどが絶版になっていた彼の作品を古書店や大手チェーンの古本屋に行くと「し」の棚を凝視して探していたのを思い出した。表紙が退色し作品名の判読もあやういあの文庫本を手に入れたのいくつの頃だったのだろう。ページも半ばまで茶色くヤケていて読みとおすのにはそれなりの労を要したはずだけれど、読むために苦労したという記憶はない。

昭和初期から戦後を追想する自伝的作品『娘と私』は2014年にちくま文庫から再刊されているが、私が手に入れたのは確か新潮文庫だった。どこで手に入れたのか、いくらだったのかは今では思い出せないけれど、ぼろぼろな本だったから大手チェーン店では売り物にされなかっただろうし、おそらくは地元の古書店で格安で売られていたものだろう。

郷里とはものの集まりが質量ともに大きく異なる東京では、出かけてみると偶然に古書市に出くわすことがある。そんなときに私は今度「し」ではなく「わ」行を凝視する。そうして買い集めたいくつかの本にはおそらくある程度の希少価値があるのだろうけれど、もの、としてではなく、書物、としての価値に重きを置くならば、やはり読むべき本、あるいは読まれるべき本は「手に入る」ことに価値がある。だからこの夏に渡辺一夫の『狂気について』が岩波文庫から復刊されるのはとても嬉しい。

古書店で目的の著者の本を見つける喜びはもちろんあるし、それがもしかしたら著者と同時代の紙、インクで作られたその時代の空気をとじ込めたものかもしれない、そういう気持ちで奥付を開くときの興奮は代えがたいものではあるけれど、渡辺一夫の本は新刊書店で気軽に手に取れるように広く復刊される価値があると思う。