日暮れの音

穏やかさの原理

 からだの大きな人が湯船に入ると体積でお湯かさが増えるみたいに、その存在だけで身のまわりの空気を穏やかさで満たしてくれる人がいる。それは発見者がはだかで駆け出したという物理学の法則とは違って、もっと日常的でささやかなものなので、気がつくのは入浴中の安らぎとはかけ離れた、本人の不在という現実の前に容赦なく立たされたときだ。

 あまり深くものごとを考えずに過ごしてきたせいか、思い出せる幼年の記憶が少ない私にとって、なんとか思い出せるのはビニールハウスにいた沢山の蚕のことだ。中に入ると湿度の高いもわっとした空気がただよい、彼らが桑の葉を食べる咀嚼音が響き渡っていた。蚕は手に乗せるとひんやりして、新幹線のような顔をしていた。剪定ばさみで刈り取った桑の枝を手押し車に乗せてはこぶ手伝いをした記憶があるから、今では民俗学の題材にされてしまうような養蚕の体験がまがりなりにも幼年の自分にはあることになる。
 手押し車の押しかた、のこぎりの扱い、まきの割りかた、それに「じゅうねん」の擦りかたなどはすべて祖父に教わった。職人家業ではよく、見て盗め、などと言ったりするが、祖父は自分のやりかたを人に見せることで、それを理解させてしまう名人だった。そしてそのことが農作業や日々の暮らしのことに限らず、生きかたそのものにまで現れていた。
 生きていく上で、ものごとのよしあしを判断するのは自分自身だけれど、それを測るときに使うものさしは身のまわりの大人からゆずり受けていく部分がとても大きい。私がいま使っているものさしは、祖父のものをそのまま譲り受けたものじゃないかと思う。それには長い歳月の中で、貧しさや戦争を体験して生き抜いてきた祖父が自らつけた刻みが入っていて、世間的に波風を立てないだけの中庸さとは違った、祖父の生きかたが込められている。

 祖父は戦争の話をこちらから尋ねると詳しく聞かせてくれたが、自ら進んで話すことは稀だった。そしてそれを語り出す時には決まって、何度も反復した思い出の話しをしているのではなくて、いま目の前にその時の情景を見ているように語った。
 祖父には話すべきことと、黙っておくべきことの区別があって、何度か聞いたことのあるエピソードたちの間には語らざるべき何かが隠されていた。それは時々、記憶が明晰な祖父のよどみない語りの中に一瞬の沈黙となって現れた。だが再び話し始めた祖父はその一瞬の間に考えたであろうことは、おくびにも出さなかった。まるで黙って持っていくことにしている、そんな話しぶりだった。
 ――おじいちゃんがいたのは、遠山班っていう班だった。島に上陸する前に船が沈められてしまったから食料が少なかった。隊が最後の配給をするっていうから仲間とリアカーを引いて貰いに行ったんだ。隊にはおじいちゃんがいた班のほかにもうひとつ遠山班があった。配給は班ごとに呼び出されて受け取る決まりだったから、遠山班は二度呼ばれるはずだったんだ。一度目の呼び出しには一緒に行った仲間に返事をさせた。そして配給を受け取った仲間を先に返して、もう一度呼ばれるのを待った……。
 祖父は当たり前のように、遠山班、という呼び出しに応じそのまま配給を受け取った。当然配給が受け取れなかった人たちがいたはずだが、さっきまで普通に会話していた戦友が、銀しゃり食いてえなぁ、と言ったっきり絶命するような過酷な状況の中で、手榴弾で自決することも覚悟した祖父が、この時、目前に迫る死からわずかにでも距離を保とうとしたこの行為が、今の平和な世に生きる私達にはどれほどの痛みをともなったものだったのか、想像するのは難しい。

 息を引き取って二日後の祖父のまくら元にすわり静かな顔をながめたとき、自分が生まれた頃から身体をすっぽりと包んでいた慣れ親しんだその穏やかさが、祖父の最後の呼吸が空気中にうすれていくように、なんの名残もなく消えていく感じがした。夏の開け放した座敷には風がとおり、目の前の線香の煙をはこんでいった。煙のはこばれてゆくさきに、まだあるかもしれない祖父の穏やかさを見送りながら、私は祖父に手を合わせた。

 最後に会ったとき、私の近況報告を遠い耳に手をあてながら聞いていた祖父は、私が話し終えたあとで短く、「いいんだよ、それで」と言った。
 いまでもなにか判断に迷うことがあると、記憶の中の祖父にこの言葉を言ってもらえるかどうかを考えるのだが、その祖父は迷う私を見ても「いいんだよ、それで」と言い、いたずらっぽく笑うのだった。