日暮れの音

縮めた身が消える前に

通勤電車の車窓からはいつも河が見える。その河に沿うように高速道路が走っているのだが、私は毎日その景色を目にして、自分の心のありようを探っていた。くつろいだ気分で電車がこの河を渡るときには、どこまでも続く高速道路から、様々な場所に行けるような気がして、ゆるい弧を描いている高速道路が等間隔に並んだ街灯の光を川面に反射させているのを眺めたものだが、なにか気分が落ち込んでいたりすると、その高速道路のつながりもまったく自分には関わりのない、無機質なものと映った。

ほとんど葉の落ちた街路樹が立ち並ぶ駅から自宅までの道を歩く。その街路樹は今年の春まで、すごい数のすずめ達のねぐらになっていて、夜遅くにその下を通るときなど、少し葉陰を伺うと枝には隙間なく並んだ彼らの静かな呼吸が聞こえていたのだが、夏のある日、市の職員が鳥よけのネットを被せたので、彼らはすっかりよそへ行ってしまった。青々とした枝葉にネットが被さったその姿は昔ながらの大衆演劇の俳優がかつらをかぶる前の姿のようで、どこか滑稽さがあった。

秋になって街路樹はそのままの姿で紅葉を始めた。樹々が色付いてくると街には普段目を向けないところにも樹木があることに気付く。

紅葉は本来、色付いているというよりはむしろ葉から葉緑素が失われていく過程の色だから、そんな風に色を失うことで表現される鮮やかさがあるとすれば、人にとっても、自我がなくなっていくことで現れてくる逆説的な人間性のようなものがあるのではないか。この頃、強く自分を主張する必要を感じなくなってきたのは年のせいだろうか、などと貶めたりはせずに、それに応じた向き合い方で過ごしていくことこそが、今の自分をつよく保つことにつながるはずだ。冬になって寒さに縮めた身がいっそう小さくなり、なくなってしまう手前でそんな風に思う。