日暮れの音

竹林の中の男

深く一定の周期を乱さぬように、呼吸しながら体の底に澱のように沈んだ疲労を吐き出してゆく。終始無言でいながらしかし、何も考えないわけにも行かず、将来というほどもない先の自分自身のことを他人事のように考えている。私は誰のことも傷つけるわけにいかない時、誰も傷つけなかったのではない。深く己自身を損ないながらこのように自らを溶かしてきたのだ。鋳型に流されたようにかりそめの形を与えられて。

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週末の東京を脱出して行く長い渋滞の列に並びながら、連日続いた徹夜の眠気を体を大きく使ったあくびで吐き出した後、見上げた空はよく晴れて雲はあちこちで自由に伸び縮みしていた。秋の斜めから差してくる長い光線が彼らを照らして複雑な陰影を与え、その中を通り過ぎてきた光が地上に降り注いでいた。まだ遠くに見えている富士のくっきりとした山頂からなだらかに続く裾野が目の前に迫り、その雄大さに視線を釘付けにした。

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道が混んでいたせいで予定より随分遅れて到着した目的地の美術館は、町を見下ろす丘の上に建って、先程よりも角度を増した日差しに長い影を作っていた。ヴァンジ彫刻庭園美術館、イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの作品が展示されるこの美術館の存在を初めて知ったのは十代の終わり、当時働いていた飲食店が掲載されたある雑誌でだった。見開きに竹林の中を自失の表情で顔を両手で覆ったまま歩む男の姿、あるいは次の一歩を躊躇っているようにも見えた。

入り口にはヴァンジが下絵を描いた壁一面のモザイク画。波打ち際を歩く女と、それをやや後方で見守るような男の後ろ姿。ちょうど今日の空のように透き通る青空に雲がたなびいて、穏やかではあるけれど上空を行き交う風の気配が感じられる。

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1931年、フィレンツェ近郊、ジョットやアンジェリコそして彼ら芸術家を支援し続けたメディチ家を輩出したムジェッロで生まれたジュリアーノ・ヴァンジは幼少の頃からフィレンツェの素晴らしい芸術に親しんできた。彼自身「3歳でフィレンツェに移り、大理石を手に育ちました。フィレンツェは美の宝庫であり、彫刻家になるのに影響を与えたかも知れません」と発言している。

1950年、19歳でブルーノ・イノチェンティに師事したヴァンジは23歳の時、出品したコンクールで一等賞を受賞する。同じ年、アドリア海に面した街ペーザロで美術を教える教師となるが、29歳で新しい表現を求めてブラジルへと渡る。そして三年の間、抽象彫刻の可能性を模索した彼はしかし、人間の内面を深く表現するための手段として抽象表現に限界を感じ、イタリアへ戻り再び具象彫刻へと転じた。

帰国後、ミラノ北部のヴァレーゼに移り、カントゥーの美術学校で教えるかたわら様々なところへ作品を発表し続けたヴァンジは次第に国内外での評価を高めていく。やがてイタリア国内の教会からの依頼が増え、今や彼の作品はヴァチカンにも収蔵されている。現在はペーザロやピエトラサンタにアトリエを構え、80歳を過ぎてもなお衰えることなく精力的に作品を制作し続けている。

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モザイク画の壁を過ぎると、一面殆どむらのない緑色を足元に敷き詰めて芝生が広がり、「層になった木を眺める人物」と題された大作に迎えられる。その向こうにはまだ顔は見えないけれど、あの自失の表情の男がこちらに背を向けて歩んでいる。それは静止しているはずなのに動きを感じさせる。しかし、けして時間を止めてその一場面を切り取ってきたのではない。とても緩やかに動き続けているのだけれど、それがあまりにもゆっくりなのでそのことに気付かない、そういった類の静止だ。

一歩一歩を円滑に歩んで行くのではない。一歩を踏み出すまでのためらいの時間が、その後の全てを担っている。だが例え次の一歩が思い通りの着地をしなくても、憂える必要はない。全て自分の意志に従って思いのままに歩んでいくのではなく、出会う人々や風景によって踏み出した足の着地点が変えられていく、そのような歩みにこそ魅力がある。「竹林の中の男」の静止した歩みは踵を上げて次の一歩を踏み出そうとしている。

上空を雲を引きながら飛行機が通り過ぎて行った。あの飛行機の乗客たちの保留された一歩は次にどこを踏みしめるのだろう。

まだ庭園の入り口近くで、私は次の一歩を踏み出しかねている。

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