日暮れの音

Untitled

 いつか、と思っているうちに時間は過ぎ去ってしまうものだ。僕には今まで、沢山の書かなければならなかったことがあったように思う。しかしそのどれも僕は書かずにやり過ごしてしまった。それはいつも頭の中で言葉にされるのを待ち望んでいるのに、一言も、ただの一語も、僕は言葉にしなかった。そのことを悔やんでも今ではもう手遅れだけれど、今、僕はここに、僕の頭の中で言葉にされるのを待っているひとつひとつを書く。それは誰の目にも触れないかもしれないが、言葉の子どもたち—頭の中で言葉にされるのを待っているもの—がただ死んでいくよりは、とても意味のあることだろう。たとえ酬われることのない愛情でも、それを持つものにはとても重大な価値があるのだ。
 ある朝、なんの前触れもなく始まったことが、まだ始まったとすら認識していないことが、自分を知らず知らずのうちにどこかへ運んでいってしまう。それは明確にどの瞬間、と振り返ることの出来ない、ある朝—あるいはある夜—としか言うことの出来ないとても曖昧な瞬間なのだけれど、しかし全てはそこから始まったのだ。僕は自分の小さなアパルトマンの一室で殆ど本に埋もれながら、しかし実際には一冊の本も読まずに過ごしていた。ちょうど手に取りやすい場所にある本を一冊持ち上げては目を通してみるのだけれど、すぐに文章がただの線の重なり合いに見えて来て、僕は本を投げ出してしまうのだった。外からは様々な音が聞こえて来たけれど、その音も殆ど耳に入ってこなかった。視角や聴覚といった感覚がなくなってしまったかのようだった。正確には視角も聴覚も働いているのだが、判断力のなくなった頭がそれらをなんの選別もなしに取り込んでしまうので、良いも悪いもなくなってしまい、ただ色や音が区別なくに頭の中に氾濫していた。距離感すらもおかしくなっていて、もう「ここ」と言えるくらい限りなく近い場所がとても遠く、行ったこともないような遥か彼方がとても近いように思えた。それは宇宙が始まって以来の時間を全て経験して来たかのような感覚で、その感覚からは恐竜もローマ人も同じようなものだった。
 僕はふとテーブルの上でクシャクシャになっている紙切れに眼をとめた。それは図書館で借りた本の返却期限が書かれた紙だった。「我に返る」という言葉はまさにこのような時に使うのだろう。時間という概念の中では一瞬であったけれど、木々が地中から吸い上げた水を枝の先まで行き渡らせていくような、とてもゆっくりとした速度で、僕は自分が知覚を取り戻していくのが分かった。すでに何を借りたのだか忘れていたが、それはプルーストの『失われた時を求めて』だった。もっと正確に言うならば『失われた時を求めて』の第一巻『スワン家の方へ』である。長大な物語の第一遍となるこの『スワン家の方へ』には、この物語の主人公である「私」がマドレーヌをお茶に浸して食べたことから過去の記憶をよみがえらせるシーンがあるのだが、テーブルの上でクシャクシャになっていた紙のおかげで、僕はこの本を今日中に返しに行かねばならぬことに気付いたのだった。「私」が記憶をよみがえらせていく速度もこんな風なものであったろうか、と僕は思った。