日暮れの音

狂信と寛容〜ガリヴァー旅行記〜

『ガリヴァー旅行記』を読みました。何を今更と思われる方もおられるでしょうが、何故か今まで縁がなく読む機会に恵まれなかったのです。けれど『ガリヴァー旅行記』は原作をまるまる読んだことはなくても、子どものころに絵本などで知っていて、小人や巨人が住んでいる国、空飛ぶ島、馬が治めている国などが出てくるのは分かっていました。しかし改めて今、大人になり(私が一般の常識と照らし合わせて大人と言えればですが)読んでみますと、そのようなファンタジー的要素はただの手段に過ぎず、そこに込められた作者スウィフトの意思がこの物語をただの冒険物語ではない、物語として一段深いものにしていることに気付きます。それは当時(初版が出たのが1726年)と現在の状況を鑑みましても、人間の深い部分に潜んでいる危険な動物としての性質には変化がなく、従って現代におきましてもスウィフトの言葉は十分に我々の胸を打つに足る文章と言えましょう。

それはつまり「狂信と寛容」と言うことが出来るでしょう。この言葉は仏文学者、渡辺一夫氏がその著書『曲説フランス文学』で仰っていたことですが、自分の信じているもの、あるいは自分自身を正しいと信じて行動をすることは人間誰しもあることです。しかし人間は自分(または信仰しているもの)が正しいと信じるあまり狂信に陥りやすいということです。狂信に陥れば最後、他のものは一切が糾弾すべき対象になり、そのせいで人間同士が殺し合うに至ったということも過去の歴史を見ると珍しいことではありません。

しかし人間にとって一番必要なのは何が一番正しいのか、その唯一のものを決めることではありません。全ての人が寛容になり、自分以外の意見や主張を認め合い、場合によってはそれを止揚し、より正しいものにしていく。こういったことが人間にとって大切なことではないでしょうか。スウィフトは理性のある馬、フウイヌムの国で過ごしたガリヴァーを最後、人間の醜さに絶望させます。フウイヌムは個体ごとに特別な愛がなく、その死も悲しんだりしません。子どもは特に自分の子でなくても、足りなければ(この国では雄雌一頭ずつ子を育てる)よそから貰い受けたり、雄二頭が生まれてしまったら、雌二頭のいる家と交換したりします。いくら理性があり、その行動が正義に貫かれていても、他者に対する愛がなければそれは欠陥なのではないかと私は思います。

スウィフト自身は一体どうだったのでしょう? 人間が人間に絶望してしまえばそれで全てが終わってしまいます。人間は理性(愛と言い換えてもよいでしょう)に基づきこのような絶望から抜け出せるのではないか? それだけが人間を完成へと導いていく唯一の考えだと私は思います。