日暮れの音

月山とゴムマリ

横光利一の弟子として二二歳で文壇デビューを果たしながら、その後六二歳で『月山』を著して芥川賞を受賞するまでの四〇年間、「一〇年働いて一〇年自由な放浪をする」という生活を続けて世間的には沈黙していた作家、森敦。多くの作家が彼の才能を認め助言を請うてきたけれど、長い間自身がペンを持つことはなく、どうして書かないのか? という問いには「書けないわけじゃない。書けば、世間をあっと言わせるものを書く」と応えた。

森敦本人が言った「一〇年働いて……」という言葉にはどうやら不正確なところがあるようなのだが、それでも時に労働を時に彷徨を続けながら、文章を書くことには一定の距離をたもち続けた姿勢はどこか過剰とも思え、その並はずれた才能をまるで自ら拒否しているようにも見える。

それから四〇年ののち、ながい沈黙をやぶって書き出された『月山』の冒頭は、このような言葉で語り始められる。

ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。

豪雪に交通が遮断され脱出する手段の絶たれた厳冬の山間で、破れ寺に身を寄せて一冬を過ごす「わたし」は、安部公房の『砂の女』の主人公が砂に閉じ込められたように、雪によって世間と隔絶されている。しかし雪はその内側に「わたし」を閉じ込めながら、同時に彼を保護している。

長い冬の終わり、「わたし」は大きな鉢の中から這い上がっては落ち、落ちては這い上がるカメムシを見つける。ようやく鉢の縁にたどり着いたカメムシが羽を広げて飛んでいくのを見た彼は「ああして飛んで行けるなら、なにも縁まで這い上がることはない」と声を上げて笑いながら「たとえ這い上がっても飛び立っていくところがないために、這い上がろうともしない自分を思って」ふと恐怖を覚える。長かった冬の終わりは、彼自身を閉じ込めながら守ってもきた雪を溶かして、這い上がろうともしない「わたし」を徐々にその縁に連れ出そうとしている。

森敦が『月山』のもととなる体験として注連寺に滞在したのは一九五一年、三九歳の頃である。その後の約二〇年間、彼は「飛び立っていくところ」を求めながらその「鉢の縁」にたたずみ続けたのだろうか。

のちに文学上の弟子として、森敦に師事した森富子さんは書かない作家に対してひたすら「書いてほしい」と繰り返した。作家の死後、彼女が上梓した『森敦との対話』、『森敦との時間』には「書けないわけじゃない。書けば、世間をあっと言わせるものを書く」と言いながら、決して書こうとしなかった森敦が、どのようにしてふたたび筆をとるに至ったのか、それからどんなふうに作品を作ってきたのか、作家の死までの時間を通して丹念に語られている。

作家の才能を支えるために養女にまでなった富子さんは会社勤めから帰ると原稿の整理や家事、編集者の応対もこなし、睡眠時間は一日三時間。現実に押しつぶされそうな彼女は時に空想のゴムマリに救いを求める。

ゴムマリが空中を飛んだ夢を見た。私はゴムマリの中にいる。山も川もあって、あの古ぼけたビルの屋上から見た光景が拡がる。身体がふわりと浮き上がり、空中で揺れ動く。漂いながら、居場所を探していた。突然、猛烈な勢いで落下し、着地した。そこは布団の上だ。そして想った。ゴムマリの中に桃源郷を求めたのだろう、と。

作家との会話の折々に描かれるこのゴムマリへの空想が彼女の痛みを生々しく表現していて、読んでいて苦しくなるほどだった。強すぎる光は影を、などという表現は陳腐だ。むしろ彼女の柔らかな明かりが森敦をほのかに照らしていたことで、作家は書くことに踏み出したのだと思う。

ながい時間沈黙を続けた作家森敦の生涯は、「鉢の縁」でたたずみ続けたというよりも、その書き始めるまでの助走も含めて、着地すべき場所を持たない永遠の飛翔だったのではないか。