日暮れの音

後始末の顛末

朝は寝ぼけていて電車の中で本を読むような余裕はないし、帰ってくればすぐに寝てしまうので、毎日、仕事から帰る電車の中で少しずつ読むのがこのところ出来る唯一の読書なのだが、空席が目立つ帰宅ラッシュの混雑も落ち着いた時間帯の電車の中で、時にほろ酔い加減でうたた寝をするおじさんの頬を肩に乗せながら、私は十代の初めに読んだ本を懐かしみながら読み直していた。

カトリック学生寮で暮らす三人の不良学生達と、彼らがどんな事件を起こしても見守り続ける聖人に列せられても不思議はないような指導神父。「……となると、わたしがまたあなたがた三人を背負い込むことになるわけでっか。しんどいはなしやねえ」関西弁でそう言いながら結局は彼らの面倒を見てしまう神父はフランス人であり、その容貌は天狗鼻でジャングルのような髪の毛が生え茂り、神父服は手垢と摩擦によって鏡のように輝いている。「ドタマかちまくよ」と時に雷を落としながら、彼は不良学生達の尻拭いをし続ける。

『モッキンポット師の後始末』。昨年春、惜しくも肺癌の治療中に亡くなった井上ひさしのこの作品を以前に読んだのはもうはるか昔のことで、私はほとんど忘れていた内容が読んでいくうちに少しずつよみがえっていく中で、しかし以前に読んだ時とは全く違う手触りを感じるようになっていた。ちょっとした成功に調子づいて失敗を繰り返す三人の若者と、その後始末をし続けるモッキンポット師の物語には、喜劇や人情という言葉が想起されるけれど、それ以上に全体を貫き通しているのは詩的と言っても良いような、不思議な気配である。

この本を初めて読んだ当時、私は詩とは無情で儚いものをそこいにとどめようとする言葉で、私達の生活からは少し距離のある彼岸に存在するもの、そういうイメージを持っていた。しかしある時から、私は詩とはもっと人間的で感情のある言葉だと思うようになった。そしてそれは人が何かを、あるいは誰かを思う時に濃く現れ出るように思えた。

改めて本を読んだ時、モッキンポット師のこの「許し」はキリスト教徒のアガペーというよりも、むしろとても人間味あふれる人情であって、そしてそれがとても美しい詩的なものだと感じた。私たちはすべての物事をありのままに見ることは出来ないが、しかし、そのために自然を見るとき、誰かを思うとき、ありのままに見るときよりもいっそう美しく、大切に思えるのではないか、私は安らかな鼾をかきながら寄りかかるおじさんの重みを肩に感じながら、やや苛立ちを感じ始める自分を諫め、モッキンポット師に許しを乞うのだった。