季節のシーソー〜正弦曲線〜
堀江さんの文章を読むたびにこの不思議な浮遊感は一体何処から来るのだろう、と思っていた。この『正弦曲線』は堀江さん自らの種明かしのようだ。一定の振り幅の中で行ったり来たりする正弦曲線を乱さずに過ごしていくことは、そこに浮遊感を生む必然があったのである。
季節はまるで子どもの頃遊んでいたシーソーのように変化していく。一方が足で地面を蹴って重みの支点からずれると、すっと持ち上がり、また一方が足で地面を蹴ると、そちらがすっとが持ち上がる。そんな遊び方に飽きるとお互いに足を浮かせたまま平均を保ち、シーソーが傾いてしまわないよう静止させてみるのだが、これがなかなか難しく、細やかな体重移動を少しでも間違うと、シーソーはすぐに一方へ傾き始める。しかしほんの少しの傾きならばまだ修復の余地はある。けれどその危うい重みの支点からついにずれてしまうと、シーソーはいとも簡単に傾いてこの遊びは終了となってしまう。季節の変わり目はまるでこの遊びのようではないか。ほんの少し夏が秋へと傾いたかと思うと、今度は秋が夏へと傾いていく。その繰り返しが何度か行われた後、ついには秋が、どすん、と音を立てて着地する。そして再びシーソーを漕ぎだそうと、地面を蹴ってみてももう相手側は不在で、どうあがいても、自分が浮き上がることはないのである。
私は子どもの頃、サッカーや野球という運動よりも、地味な遊具に夢中になっていた。そして一瞬の無重力を感じさせてくれるシーソーは中でもとりわけ好きな遊具だったのだが、周囲の友人は初めは快く付き合ってくれるものの、校庭でサッカーが始まったりすると、途端に私を置いてけぼりにしてそちら行ってしまうのだった。相手のいなくなったシーソーの孤独感は切ないものである。いくら地面を蹴ってみてもそこに無重力の快感は生まれず、自分の重みのみが強調されて行くばかりだ。この頃は夏が去り、秋はこの孤独を噛み締めているのではないだろうか。
シーソーの動きは無重力も生むが、その動きは0を軸にしてプラス1とマイナス1の間を行ったり来たりする、サインウェーブ、正弦曲線のようでもある。婦人公論に約二年渡って連載された堀江敏幸さんの『正弦曲線』の中で堀江さんは「なにをやっても、一定の範囲で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ」と述べている。絶えず変化のない状況ではあるけれど、しかし直線的に変化しないのではない、一定の降り幅を行ったり来たりする、思考の、生活の、人生のバイオリズム。その曲線に身を委ねて書かれたこの作品は、著者特有の浮遊感のある文章によって、とても心地よいテンポで進んでいく。絶えず同じ幅で揺れながら続いていく正弦曲線はシーソーのような無重力さえ生むのだ。
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