言葉と抑揚〜文章読本〜
口から出て来る音がどのようにして意味を持ち始めて言葉として機能しだしたのか、きっと初めは幾通りかの抑揚があっただけに違いない。しかしそれは言葉というよりは他の動物たちも使っている鳴き声とさほど変わらぬものだったろう。しかし我々人間の祖先は、そのいく通りかの抑揚で仲間に対して迫り来る危険を伝え、己の喜怒哀楽を伝え、そして時に愛を伝えたことだろう。文章というものは言葉の成立と密接に関係している。なぜなら言葉が記号化されたものが文字であり、それを連ねたものが文章だからだ。しかし言葉と文章はそれほど単純に寄り添ってはいない。時に我々の表現が一人歩きし始めると、それを記すためであるはずの文章は、その役割を担えなくなってしまう時がある。日本語の貧しい語彙を補うため漢語を多用した文語体という難解な文章と、直接的な気持ちを表現する言葉との間に広がっていた溝はその良い例ではないだろうか。二葉亭四迷が口語体で文章を書くという行動に踏み切らなければ、明治の言文一致運動は起こらなかっただろうか。しかし文章が言葉を記すものである以上、双方間の溝は埋められなければならず、やはり何か同様の結果をもたらすきっかけは現れたのかもしれない。
中村真一郎の『文章読本』は口語文が形作られて行く過程が、明治から現代にいたる作家の文章を例に解りやすく解説されていて、二葉亭四迷を始め夏目漱石や森鴎外がその基礎を築き、田山花袋や島崎藤村といった自然主義の人々がそこに客観性を与え、白樺派によって主観性を獲得していく、そんな過程が紹介されている。そして現在でも文章は変化し続けているのだということを教えてくれる。
現在我々は日常的にメールのやり取りなどをするけれど、そこに記される言葉はどの程度自分の感情を相手に伝えられているのだろう。今程文章が気軽に相手に送れるようになると、思ったことを書いて送る、ということになりがちで、考えたことを書く、という風にはなりにくいかもしれない。例えば「テレビが面白かった」という言葉は自分が感じたことを率直に伝えただけで、そこに自分なりの考えがあるわけではない。メールのように気軽に相手に文章が送れると、どうしてもその言葉自身が軽くなってしまい、意味が希薄になっていくのかもしれない。それは言葉を文字にしただけで文章とは異質のものだ。文章は単純に言葉の記述をするだけのものではなくて、考えを示すものでもある。言葉は本来「感じる、考える、話す」という順番で口から出るもので、しかし現在では「感じる、話す」というものになってしまいがちだ。そしてメールのようなものの発達で文章もそれと同じになってきているのではないだろうか。もちろんコミュニケーションのためにわざわざ「感じる、考える、話す」という順序を踏む必要は必ずしもないかもしれないけれど、幾通りかしかなかった少ない抑揚で愛を伝えていた時代と、愛を伝える言葉がきちんとある現代とでは、どちらがより相手にそれを伝え得るのか、言葉を獲得した人間としてはやはりその「いく通りかの抑揚」には負けられないと思う。
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