日暮れの音

ルリマツリの青

風の冷たさが襟の隙間から入り込んできて、身を縮めながら歩く朝の道で、初夏のころから毎日通りしなに見ていたルリマツリの青い小さな花が、いよいよ最後の一輪を散らそうとしていた。都会のビルの一階部分を覆うほど旺盛に広がり、イチョウ並木が色付いてもまだ花を落とさなかったこの花も、ここ数日続いた寒気にいよいよ散り際を決めたのだろう。

郷里の田舎町から都会に出てきて初めて通うことになった街に、十年以上も経って再び通うようになり、毎朝駅から歩く道の脇にふとみつけたのがこのルリマツリだった。それはまだ、いく輪かの小さくて青い花が咲き始めたばかりの梅雨入りまえの季節で、私はそれから次第に勢いを増していくこの花を親しみを持って眺めていたのだった。

十年前にも通ったその道をこうして歩いていると、ひとの人生の転機など意外なほど狭い範囲で訪れるものだ、と思う。地理的にどれほど遠くに行ってみても、同じ土地の上にいる十年前の自分と、今の自分との距離ほど隔たった場所はない。あのころ、この場所にこのルリマツリが咲いていたのかはわからないけれど、望んだわけではないのに変わったもの、望んでも変えられなかったもの、そのすべてがまるで花が散っては咲くように繰り返されて、ふたたび自分はこの場所に戻ってきたのだと思う。

十年前、将来の自分がどうあるべきかなんて考えもせずに過ごしていた私のその生き方は、今になっても結局は変わっていない。その年月のあいだには、少なからぬひとから人生に夢を見ること、目標を持つことの大切さを説かれもした。

だが私たちはあまりにそのことにこだわるあまりに本当に大切なものを見失っているのではないだろうか? 目的を達成できる人間が優秀なのは異論がないけれど、むしろ誰かのためにあっさりと目的を変えて、それでも幸福に生きていける人間こそが本来の意味で人間的なのではないだろうか?

生き方に不安を抱えていたあのころの私は、十年がたっても、やはり未来の不安など拭い去れないままに生きている。だけど毎朝眺める朝の光や、花の美しさは歳を重ねるごとにその深み増し、親しいひとたちとのありふれた日々はただそれだけで幸福で、私はこうして生きてこれたのだ。

ルリマツリの最後の一輪が散るとき、迷いながら生きてきた過去の自分が不意をついてよみがえり、私は懐かしい友人に会ったような気持ちで初冬の朝の街を歩いていった。