Jekyll2023-04-03T08:22:18+00:00https://funnysunday.com/feed/index.xml日暮れの音nightfall soundskiyo霜月2022-11-13T04:36:10+00:002022-11-13T04:36:10+00:00https://funnysunday.com/books/133610<p>十一月もはや三分の一が過ぎて、来月になったら馴染みのお蕎麦屋さんで年越しそばの注文をしなければならない。まったく月日がたつ早さにおどろかされる。</p>
<p>この頃のように気温がさがって空気が乾燥してくると毎日聞いている町の音も変化する。窓の外からひびいてくる急行列車が速度をあげてこの町を通りすぎていく音も、夏のあいだの湿度のたかい空気を通ってつたわってくるものよりも、これからの季節の寒くて乾燥した空気のほうがくぐもりなくひびいてくる。しかし、そんな違いに気がついて季節のうつろいに思いをはせることができるのも気候のおだやかな今のうちに限られていて、寒さがまして冷たく身をきるような風が吹く頃になると、体が芯から冷えて、もう音の変化などに気をとられてはいられなくなる。それでも昨年の今頃には音や気温の変化などにこころをよりそわせる余裕などなかったから、季節の変化をこんなふうに感じられることは、とても幸せなことだと思う。</p>
<p>それはながく勤めた会社を辞めて、転職して数ヶ月がたったある休日のことだった。慣れない環境ではりつめていた緊張をほぐすために私は自然の中に行きたいと思った。転職先は都心のにぎやかなところにあったし、初日からの容赦のない忙しさにどこへいく余裕もなくて、しばらくのあいだ目に入る景色といったら無機質に林立したビル以外になかった。</p>
<p>車が休日の混雑した首都高速を抜けてようやく郊外に出たとき、私は急に視野がせまくなったような気がして運転がこわくなった。すぐにサービスエリアに入って休憩をしたけれど、不安感はとぎれることなく続き、その日はもうどこかに行くことはできそうになかった。同乗していた妻に運転してもらって帰宅はしたのだが、その日から私の精神は世界への親しみをまったく失ってしまった。不意にだれかがあげる大きな声や、沢山の知らない人たちの行き交う道がおそろしくなった。夜眠るときには明日が来ることへの絶望にさいなまれ、朝起きることは恐怖でしかなかった。いま思えば、その時点で仕事を辞めていたのなら、時をおかずに回復することもできたのだろう。しかし私は毎朝、内科で処方された精神安定剤で意識を鈍麻させて仕事へ向かい朦朧としたままで激務をこなした。</p>
<p>それは静かな内爆だった。外殻をやぶることなくその爆風は内へ内へとむかって圧力を高めていった。私の精神はしだいに日常生活に支障をきたすようになっていった。買い物の会計ですらもおそろしくなり、旅にでかけることがなによりも好きだったのに、どこかへ行きたいなんて思えなくなってしまった。いまや世界は享受するめぐみではなくなり、するどいとげのついた拷問器具だった。そんな状態が二年近く続いて、だんだん死を意識する時間が増えていった。ちょうどその頃、半年に一度のほめられているのだか、小言を言われているのだかよくわからない上司との面談があった。それは「誰かに認められなければならない」という価値観が暗黙に強制される耐えがたい時間だった。以前、同僚に、あなたは成果はあげているのにそれをしっかり伝えないから過小評価されるのだ、と言われたことがある。だが私はそんなふうに自分の成果を声高に伝えなければ得られない評価や、そうしなければ人を評価できない会社の構造に疑問を感じていた。あまりにも私が評価されることに無頓着なせいで、周囲の人たちが上司になにかを言ってくれたらしかった。一応はプラスの評価を得て昇給を告げられたのだが、私はその場で退職を申し出ていた。自分の価値を、目減りしないように他者とすり合わせていかなければならないような世界に私は耐えられなくなっていた。</p>
<p>会社を辞めたあとも、私の精神はまったく回復しなかった。あいかわらず世界は拷問器具のようにこころをしめつけ、光や音がおそろしく感じた。まるで五感すべてが恐怖を受信するためのアンテナになったようで、生きていることは苦痛でしかなくなった。まず言葉を発することができなくなり、それから高い場所や長い紐が救いに見えだしたとき、このままではあぶないと思い、ずっとためらっていた精神科を受診したのだった。</p>
<p>診察室で言葉を話す自信がなかったから、医師にはあらかじめ箇条書きにしたメモを渡したのだが、それには一瞥もせずに示されたのはお決まりの治療方針だった。こんなことで治るのだろうかと疑問を感じながらもしばらく通院しているうち、私はどこかで他者に治してもらおうとしている自分に気がついた。医師や抗うつ剤に頼れば、すべて元通りになるのではないか、そんな期待がはじめから間違っていた。そこで得られるものは耐え難い世界を生きるために感覚を鈍らせる麻酔のようなものだった。それに頼って生きるかぎり、私は永遠にこのまま世界を無感動にながめ続けなければならなかった。私にはそれがなによりもおそろしかった。この苦痛は自分で治さなければ終わることがないのだ。そう思って私は通院も薬もきっぱりと止めた。それは決して楽な道のりではなかったけれど、私はそれから少しずつ少しずつ、早起きしてみる朝陽、青空をゆっくり流れてゆく白い雲、夕方の散歩で見る夕焼け、季節のうつろいで変化する町の音、そんなものへの感動を取り戻していった。それは誰かが価値を決めたのではないもの、誰も価値を定めることなどできないものだった。</p>
<p>その頃、繰り返し聴いていた音楽にはこんな言葉が歌われていた。</p>
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<blockquote>
<p>キミの日に注がれた呪詛<br />
ただ目覚めるだけで消え去り<br />
(平沢進「TIMELINEの終わり」)</p>
</blockquote>
<p>あの日、突然闇を注がれるようにせばまった私の視野。だが、その闇はたしかに目覚めるだけで消え去っていった。まるで人生の重大なことは生まれながらに定められているかのように錯覚させてくるこの「呪詛」こそ、私の苦痛の正体だった。ただ目覚めれば、そこにはあたりまえの毎日にさえ、あらゆる芸術にもまさる感動があるということが見えるのだ。その歌はまたこのようにもいう。</p>
<blockquote>
<p>呪詛は彼岸でなおキミ殺め<br />
戻れぬ過去に見る映画のように</p>
</blockquote>
<p>この「呪詛」は彼岸でも私たちをさいなみ続ける。戻れぬ過去の出来事はもう絶対に変えることは出来ず、その結果である現在はその過去に規定されるために、決して私たちの思い通りにはならない。そうして絶望した人々が見る唯一の希望は死後にゆく天国や来世の人生である。私たちはこの「呪詛」に死後まで人質に取られ、現在を生きる意欲さえも奪われている。だがそのような「呪詛」はただ目覚めるだけで消え去るのだ。</p>
<p>それにしても、他者の承認なしには自分の価値を決定することのできない人間集団とはなんといびつなのだろうと思う。人間の本当の生にとって「他者に認められる」ことにどれだけの意味があるのだろう。「誰かに認められる」こととは裏を返せば、その誰かにとって「都合のよい存在」であるということではないだろうか。そのように自分にとって都合のよい人ばかりを評価して、損得で他者を選んでいる人間に気に入られたからといって、いったいそれがなんになるというのだろう。</p>
<p>それに誰かを「認める」という行為には、己の認識の範囲内で相手を規定するという傲慢さを感じる。だがそのような無遠慮な人物に自分という人間の価値を承認してもらいながら生きるうちに、私たちは孤独をおそれるあまり、無意識のうちにその範囲内で他者や集団にとって都合のよい人間としてしか生きられなくなっていく。おそらくこうした状態は無価値な自分に気付くことの恐怖から逃れるために他者へ依存している状態といえるのだろう。だけどそうではなくて、自分という人間がありのままで生きていて、それでも魂から共感できる人に出会うことができたなら、それが本当の人間関係であり人の価値なのだろう。愛情や友情とは、なんの虚栄も虚飾もなく、その人の人間性に感動するような人と人とのむすびつきなのであり、利害や損得とはまったく関係のないものなのである。</p>
<p>人に親切にされたとき、私たちはよくそれを「恩」をうけるという。そしてその親切にしてくれた人へ「恩義」を感じる。私たちはこの「恩義」が親切にしてくれた人への当然の感謝の念だと思っている。しかし「恩義」について辞書を引いてみるとそこには「報いるべき義理のある恩」(『広辞苑』第五版)と書かれている。つまり「恩」とは一種の負債なのである。人間は親切にされれればされただけ「恩義」という負債が貯まっていくというのだ。だが人間の優しさとは本当にそんなものだろうか。私たちが他者に優しさを差し向けるのは、他者の幸せがその人が感じているのとおなじように、私にとっても幸せであるという、ただそれだけの理由ではないだろうか。それは言わば「見返り」や「返済」を要求しない「贈与」なのであって、繰り返しになるけれどもそこには一切の損得勘定は含まれていないのである。</p>
<p>フランスの哲学者ジャック・デリダは「贈与」は「贈与」として認知された時点で「負債」を発生させ、「返済」の循環を作動させるために本当の「贈与」などはありえない、と言っているが、今はひとまず、そのような哲学的な命題はわきに置いて、私たち人間の優しさとは「恩」の売り買いで変動する資産や負債ではないはずだと言いたい。恩義という負債にからめ取られて返済にくるしみながら終わっていく人生とはいったいなんであろうか。見返りを要求される人間関係など早急に断ち切らねばならない。誰かに認められるまでもなく、あなたはあなたであり、私は私なのだ。</p>
<p>あらたな仕事を見つけて、私はばらばらに壊れた生活をあらためて組み立て直していった。それは目標に向かう意思のある道のりというよりも、生まれながらにそよいでいた柔らかな風に気がつくように、少しずつ、なんの力みもなく自然な自分に戻ってゆく足取りだった。</p>kiyo十一月もはや三分の一が過ぎて、来月になったら馴染みのお蕎麦屋さんで年越しそばの注文をしなければならない。まったく月日がたつ早さにおどろかされる。El Comienzo2022-02-23T13:37:25+00:002022-02-23T13:37:25+00:00https://funnysunday.com/music/comienzo<iframe width="655" height="370" src="https://www.youtube.com/embed/8Jna91uLi4A?rel=0" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe>kiyo待機する読書2021-08-22T07:41:45+00:002021-08-22T07:41:45+00:00https://funnysunday.com/essay/164145<figure><img src="/assets/uploads/2021/08/books.jpg" alt="" /></figure>
<p>喫茶店や電車の中、本は場所を選ばずにどこでもひらけるものだけれど、いざ読みだすとまわりのひとの動きや会話が気になってしまい思うように頭に入ってこない。そういう経験は書物を偏好するものならばきっと誰にでもあるはずだ。自分の周囲でとめどなく生起するさまざまな事象に気を取られ、他者の気配を感じながら読める本のタイプは限られている。だから外出時にしばらく持ち歩いてはみたけれど結局読めなかった本というのも、そういう人間ならば一冊や二冊、心当たりがあるのではないだろうか。</p>
<p>そういう本は自分の部屋の中のとりわけ気持ちの落ちつく場所で読むにかぎる。机の高さや背もたれの角度に調光。まずはその環境から整えなければならない読書というものがあって、そういう本を読むときには一見瑣末とも思えるカーテンのめくれた裾だって、しっかりとなおしておきたいものなのだ。</p>
<p>そういう本の中でもとりわけ大切な本になると、それは環境にとどまらず読むものの精神状態にも大きな注意を要する。まるで連日の暴風雨のなかの一瞬の凪のように、心の波がぴたっと鏡のように静止するタイミング。そのいっとき、その瞬間の〝凪いだ精神〟でなければ読むことのできない本というのがこの世には存在する。すこし無理をして読もうと思えば読めてしまうかもしれない。それでもあえて環境だけではなく、心がその本にあたいする状態になるまで待ち続ける。嵐に閉じ込められた港で一瞬の好機を待つ熟練の船乗りのように、その期待を込めた待機の時間もふくめて〝読書〟と呼ぶような、歳月をかけた本との付き合いかたがあってもよいと思うのだ。</p>
<p>それは数年に一度、あるいは十年に一度あるかないかのとても貴重な機会だ。私は読めないと知りながらも本棚に並んだその本の背表紙にそっと視線を送る。ときには手に取ってぱらぱらとめくってみる。そしてそのとき紙が立てたかすかな風を頬にうけて、自らの心に問いかける。たいていの場合、やっぱり今ではない、と断念してもとの場所に収め、また機が熟すのを待つことになるのだが、そのとき頬に受けた風は、蝶の羽ばたきがはるか遠方で竜巻になるというバタフライ効果さながら、精神に吹き荒れている暴風雨にささやかにではあるけれど逆向きのあたたかい風を送り込んでくる。読めなくてもその本がそこにあるということ、それだけで嵐がほんの少しだけ穏やかなものに変わるのだ。</p>
<p>現代社会で生きていれば、私たちは仕事上のストレスや、加齢とともにあきらかになる健康上の気がかり、将来のための蓄え、そうしたことで頭がいっぱいになる。そんなことでは波風のない〝凪いだ精神〟など望むべくもないから、畢竟、この本はいつまでたっても読むことができないのではないか、と絶望的な気持ちになってしまう。しかし、それでも私は心のどこかでその本のことを気にかけていて、慌ただしい日常を生きながらも、精神の凪をねばり強く待ち続ける。常に諦めることをしらない熟練の船乗りの目つきで。</p>
<p>この夏、一冊の本を読み終えた。それは随分昔、郷里から都会にでてきたばかりのころに手に入れた本で、そのころの私は都会の便利さに親しむよりも、まずその喧騒に心の落ち着けどころがわからずに右往左往していた。そんな私が都会に住む利点としてまず知ったのが、さまざまな出版関連のイベントに足を運べるということだった。</p>
<p>生まれつき感性が古いせいなのか、当時から現代のものよりも昔の書物ばかりを渉猟していた私が好きになる作家は、残念ながらもう新作を望めない人物ばかりだったのだが、例外的に新作を待つ幸運に恵まれた作家がひとりいて、私はその作家の出版記念講演に出かけて行った。</p>
<p>今でも街を大きくひとまわりする電車の内回りと外回りのどちらに乗るべきなのか区別できない私は、当時、さまざまに色分けされた線が複雑に交差する都会の路線図に目を回しながら、ようやくのことでその会場となる書店までたどり着いた。それがどこの書店でどんな内容の話だったのかはもう思い出せないのだけれど、作家による話がひととおり終わって帰ろうと思ったとき、書店員から書籍へ署名が貰えると案内された。私はせっかくの機会だからと作家の前に続く列に並んだ。「宛名をいれますので、この紙にお名前を書いてお待ちください」と渡された紙に自分の名前を書いて待っていると、やがて順番がきた。そして本を開いて宛名を書くときに名前の読み方を聞かれたのを覚えている。宛名を書くだけならば読み方など知らなくてもよいはずだから、尋ねられて不思議に思ったのだった。</p>
<p>それから時間はあわただしく過ぎていった。普段遠くからかすかに聞こえる学校のチャイムとか、夕方に町内放送で流れる「ふるさと」のメロディくらいしか人工の音が響かない田舎とは違って、都会での生活は音に埋もれていた。仕事は忙しく毎日深夜まで働くような日々。目まぐるしい毎日のなかでその本は読まれないまま時間が過ぎていった。</p>
<p>それが昨年から流行しだした感染症のために、はからずも自宅にいる時間が増えた。そしてふとした拍子から本棚でずっと、読まれずに並べられていたその本を手に取ったのだった。本当にただの気まぐれだったのだと思う。けれどそれが待ち続けていた船出の時だった。</p>
<p>ページはするするとほどけていった。文字は言葉になり言葉はとどこおることのない流れになって船を押し出していった。気がつくともうずっと出港を待ち続けていたあの岸辺は見えない。そうして本はいつの間にか最後のページになっていた。</p>
<p>ここで月並みにその本を読み終えた感想などを書くことはしないでおきたい。それは、あらためて航路をたどりなおして待ち続けたあの岸辺に戻ることにほかならないから。</p>
<p>あらためて表紙をめくるとその本には日付入りで作家による署名が書かれている。 作家自身の名前のわきに書かれた「2010.3.13」という日付が、私がその本を読むためについやした長い長い待機の時間を現している。</p>kiyo静かな家2020-04-16T13:23:59+00:002020-04-16T13:23:59+00:00https://funnysunday.com/books/e99d99e3818be381aae5aeb6<figure class="wp-block-image size-large"><img src="/assets/uploads/2020/04/selective-focus-photograph-of-black-crow-946344-1024x648.jpg" alt="" class="wp-image-3062" srcset="/assets/uploads/2020/04/selective-focus-photograph-of-black-crow-946344-1024x648.jpg 1024w, /assets/uploads/2020/04/selective-focus-photograph-of-black-crow-946344-300x190.jpg 300w, /assets/uploads/2020/04/selective-focus-photograph-of-black-crow-946344-768x486.jpg 768w, /assets/uploads/2020/04/selective-focus-photograph-of-black-crow-946344.jpg 1200w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
<p>私の住む部屋の窓は高架の線路に面していて、朝夕のラッシュ時間になると複々線のその線路を大きな音をたててひっきりなしに電車が行き来するから、ほんの少しでも窓を開けていると静けさというものがまったくない。</p>
<p>「ふくふく」とひらがなで表記してみればどこか可愛らしさもあるのだけれど、四本の線路から重層的にならされる合奏は「ふくふく」という丸味のある響きとは対照的に、重くとけとげしく響くので、夏の朝夕に吹いてくる涼しく快い風も、または暖房で淀んだ空気を引き締める冬の冷気も、その音を連れないではやってこず、室内は振動したとげとげしい空気で満たされてしまう。</p>
<p>感染症の拡大を受けて自宅での仕事が続き、窓際に置いた机に向かっている私の耳に、普通列車、急行列車が上り下りと続けざまに通り過ぎてゆく音が響くとき、ふと一キロ以内に公共交通機関など通っていなかった郷里のあの静けさが懐かしく思い出される。</p>
<p>虫たちの音が絶えた冬には、遠くからカラスの鳴き声が響くほかはほとんど無音の集落に、一〇〇メートルほど先の道を散歩中のおじさんの思い切りのよいくしゃみが三度連続で聴こえてくるあの静けさが。</p>
<p>休日、外出もままならない状況下、ふとあの静かな家で読んでいた本、辻邦生『言葉の箱』のこのような一節を思い出す。</p>
<blockquote class="wp-block-quote">
<p>
このロマン・ガリの『天の根』という小説のなかに、やはりドイツの収容所を扱ったおもしろい話があります。収容所でフランスの兵隊たちが強制収容されて捕虜になっているわけですが、士気が衰え刻一刻と頽廃の気配が蔓延している。そのときに、ロベールという一人の男がみんなに、ぼくたちのなかに一人のかわいい女の子をつくろうよ、その女の子がここでぼくたちと一緒にいるということにしないか、と提案するんです。みんなが、それはいい、ということで、女神のようにかわいい女の子ができ上がるわけです。<br /> そうするとその女の子の前では男らしく振舞おうと、努力するようになる。<br /> (中略)すると、それを見ていたドイツの兵隊が、これはおかしい、何かあるに違いないと警戒して、あるとき、ワーッと来て、寝台の下からロッカーの中から調べた。もちろん何も出てこなくて、挙げ句の果てに空想の一人の女の子がいることがわかり、収容所長がやってきて、その女の子を引き渡せという。実際にはどうすることもできませんね。だからぼくたちは命に賭けてその子を守りますと頑張る。
</p>
</blockquote>
<p>続けて辻邦生は想像の力がどれほど生命感を高めるのか、ということをこのように語る。</p>
<blockquote class="wp-block-quote">
<p>
ぼくたちは現実の中に閉ざされて、それぞれが与えられた環境の中に押し込められている。にもかかわらず、想像力のお陰で、どんどん外に出ることができる。自在に羽ばたくことができる。(中略)いかに想像力は、つらい状況を超えて、ぼくたちを励まし、生命感を高め、ぼくたちの心に喜びの感情、勇気の充実した感じをもたらしてくれるか
</p>
</blockquote>
<p>当時の私には、静かな家はけっして楽園ではなかった。どこへゆく手段も持たず、ただ無音に耳をすませていたあの日々に、この言葉がどれほどの励ましを与えてくれただろう。</p>
<p>今では私は自分の意志でどこへでも行ける。電車も車も移動に便利な手段はいくらでもある。けれどそれは、このような状況になってみるまで考えもしなかったことだ。ましてあの静かな家で過ごした日々のことを、このように思い出す日が来るということも。</p>
<p>思いもかけず、またあの少年時代の気持ちを反復しながら「想像力のお陰で、どんどん外に出ることができる」という辻邦生の言葉を噛み締めている。</p>kiyoルリマツリの青2019-12-11T15:42:09+00:002019-12-11T15:42:09+00:00https://funnysunday.com/essay/e383abe383aae3839ee38384e383aae381aee99d92<figure class="wp-block-image"><img src="/assets/uploads/2019/12/white-petal-flower-129258-1024x683.jpg" alt="" class="wp-image-3052" srcset="/assets/uploads/2019/12/white-petal-flower-129258-1024x683.jpg 1024w, /assets/uploads/2019/12/white-petal-flower-129258-300x200.jpg 300w, /assets/uploads/2019/12/white-petal-flower-129258-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
<p>風の冷たさが襟の隙間から入り込んできて、身を縮めながら歩く朝の道で、初夏のころから毎日通りしなに見ていたルリマツリの青い小さな花が、いよいよ最後の一輪を散らそうとしていた。都会のビルの一階部分を覆うほど旺盛に広がり、イチョウ並木が色付いてもまだ花を落とさなかったこの花も、ここ数日続いた寒気にいよいよ散り際を決めたのだろう。</p>
<p>郷里の田舎町から都会に出てきて初めて通うことになった街に、十年以上も経って再び通うようになり、毎朝駅から歩く道の脇にふとみつけたのがこのルリマツリだった。それはまだ、いく輪かの小さくて青い花が咲き始めたばかりの梅雨入りまえの季節で、私はそれから次第に勢いを増していくこの花を親しみを持って眺めていたのだった。</p>
<p>十年前にも通ったその道をこうして歩いていると、ひとの人生の転機など意外なほど狭い範囲で訪れるものだ、と思う。地理的にどれほど遠くに行ってみても、同じ土地の上にいる十年前の自分と、今の自分との距離ほど隔たった場所はない。あのころ、この場所にこのルリマツリが咲いていたのかはわからないけれど、望んだわけではないのに変わったもの、望んでも変えられなかったもの、そのすべてがまるで花が散っては咲くように繰り返されて、ふたたび自分はこの場所に戻ってきたのだと思う。</p>
<p>十年前、将来の自分がどうあるべきかなんて考えもせずに過ごしていた私のその生き方は、今になっても結局は変わっていない。その年月のあいだには、少なからぬひとから人生に夢を見ること、目標を持つことの大切さを説かれもした。</p>
<p>だが私たちはあまりにそのことにこだわるあまりに本当に大切なものを見失っているのではないだろうか? 目的を達成できる人間が優秀なのは異論がないけれど、むしろ誰かのためにあっさりと目的を変えて、それでも幸福に生きていける人間こそが本来の意味で人間的なのではないだろうか?</p>
<p>生き方に不安を抱えていたあのころの私は、十年がたっても、やはり未来の不安など拭い去れないままに生きている。だけど毎朝眺める朝の光や、花の美しさは歳を重ねるごとにその深み増し、親しいひとたちとのありふれた日々はただそれだけで幸福で、私はこうして生きてこれたのだ。</p>
<p>ルリマツリの最後の一輪が散るとき、迷いながら生きてきた過去の自分が不意をついてよみがえり、私は懐かしい友人に会ったような気持ちで初冬の朝の街を歩いていった。<figure></figure></p>kiyo木をくぐる2019-10-08T12:36:40+00:002019-10-08T12:36:40+00:00https://funnysunday.com/essay/e69ca8e38292e3818fe38190e3828b<figure class="wp-block-image"><img src="/assets/uploads/2019/10/2F281FFB-24F8-4257-BB96-1F0338711C8A-1024x655.jpeg" alt="" class="wp-image-3021" srcset="/assets/uploads/2019/10/2F281FFB-24F8-4257-BB96-1F0338711C8A-1024x655.jpeg 1024w, /assets/uploads/2019/10/2F281FFB-24F8-4257-BB96-1F0338711C8A-300x192.jpeg 300w, /assets/uploads/2019/10/2F281FFB-24F8-4257-BB96-1F0338711C8A-768x492.jpeg 768w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
<p>仕事からの帰り道、職場を出て交差点を渡ったところに一本の大きな木がある。特別に理由があるわけではないけれど、朝にはいつも別の道を通るから、その木の下を通るのは帰り道に限られていた。</p>
<p>その木はコンクリートとアスファルトが地表の大半を占める無機質な街には不釣り合いに、枝が道に張りだして葉っぱが空を覆うとても立派な木なのだが、私はこの木の下をくぐるとき、いつも、なんとなく帰路の自分の気持ちがほっと切り替わるような気がして、その一本の木の下をまるで鎮守の杜に足を踏み入れるような慎重さで恭しくくぐるのだった。</p>
<p>どれほど前からここに立っているのだろう? 私の毎日など一瞬のように、木はもうずっと長いあいだそこに立っているのだろう。気がつけばこの木にだってたくさんいたのだろう蝉の声もきかなくなり、空には重なりあった葉を通して、見ようとしなければ存在すらも忘れてしまいがちな、秋の月明かりが街の光に紛れて見えていた。</p>
<p>ただ繰り返しているだけのような毎日も、確実に過ぎてゆく。わずかに残る夏の余韻が次第に消えて秋の気配が増してくると、毎年のようにそんなことを考える自分がいる。誰に約束したわけでもなく、義務でなどあろうはずもない人間としての成長などというものを、暑さがひと段落したあとで考えてみたくなるようなのだ。それは会社で上司にいわれる「成長」とは本質的に別のものである。</p>
<p>十代に身体の成長期の終わりがあるのなら、人間としての成長の終わりはいつなのだろう。ずっと足踏みばかりして停滞しているような己の成長を鑑みるとき、私はむなしくなる気持ちを抑えて、身近な人たち、それからすでに世を去った大切な人々のことを考える。前に進んでいる実感がなくても、現在にも過去にもこうして誰かに親しみを注いでもらったという事実が、それだけで生きている意味になり得るはずだ。</p>
<p>そして木の年輪のように少しずつ、などと陳腐な表現でお茶を濁して、私は帰り道をまた歩き始めるのだった。</p>kiyo愛情について2019-07-26T14:34:20+00:002019-07-26T14:34:20+00:00https://funnysunday.com/essay/e6849be68385e381abe381a4e38184e381a6<p>他者が自分に向けてくれた親しみや、思いやりが、あとから考えてみれば疑いないようのないものだったとしても、その恩恵を受けた時点ではそれに気づかずに過ごしてしまうということが私たちにはよくある。感謝の多くはあとになって、もう伝えるすべが失われたという時になってやってくる。</p>
<p>だが、それとても結局は気づくことのできた一部に過ぎないのだろう。この世のすべてが感謝に価するなどという性善説を語るつもりは毛頭ないけれど、自分に親しみをそそいでくれる人が誰にだってひとりもいないということはない。それならば結局、愛情とは自らが他者に与える能動的なたぐいのものではなくて、相手が自分に対して抱いてくれる親しみを感じとる極めて受動的な能力なのではないか。</p>
<p>相手によって態度を変えることのないひとと接していても、そのひとから受ける印象は受け取る側によって随分違う。自分が好感を抱いているひとの陰口を思わぬところで耳にすることだってある。</p>
<p>だからあの娘はだめなのよ。ずっと昔、そういって他者を批判ばかりしているひとがいた。矛先にされた相手は私と親しく、おおらかで仕事もしっかりこなすひとだったから、私はこの「だから」には同意しかねたのだが、批判した当人は誰からも賛同を得ることが確実な事実のように述べていた。</p>
<p>なにが彼女をそこまで否定的にするのか不思議だった。今になって考えてみると、彼女は決して他者に心を開かないひとだった。彼女がなにを求めているのか、なにを嬉しいと思うのか、周りにいた私達は誰も分からなかったのだ。</p>
<p>思えば彼女はいつもまわりの評価を気にかけていた。頭のよいひとだったから子どものころから成績も優秀で、褒められることが当たり前だったのだろう。普段の仕事も模範的といってよかった。だが、そのことがかえって彼女の本心を私達から隠していた。</p>
<p>褒められるための行いというのは言わばあまりリスクのない行為である。そこには他者への思いやりも倫理観もない。戦争で人殺しが正当化されるのはまさにこうした価値観のゆえだろう。</p>
<p>示された親しさには本心で喜ぶ。万物に感謝とか、自分を捨ててとか、そんな宗教的な尺度ではなくて、他者のそそいでくれた親しみに素直に感謝してみること。愛情とはとりあえずそのくらいのことから始めてみればよいのではないか。</p>kiyo他者が自分に向けてくれた親しみや、思いやりが、あとから考えてみれば疑いないようのないものだったとしても、その恩恵を受けた時点ではそれに気づかずに過ごしてしまうということが私たちにはよくある。感謝の多くはあとになって、もう伝えるすべが失われたという時になってやってくる。生きている文字2019-07-25T12:36:47+00:002019-07-25T12:36:47+00:00https://funnysunday.com/essay/e7949fe3818de381a6e38184e3828be69687e5ad97<p>須賀敦子のエッセイに『塩一トンの読書』という作品がある。教科書にも載っているから読んだことのあるひとも多いかもしれない。</p>
<p>その中で須賀さんは、一トンの塩を一緒に舐めるほどの長い時間をともに過ごしたものでなければ、本当に相手のことを理解することはできない。読書もそれに似て、一冊の本を本当に理解するには長い時間が必要だ、と語るのだが、最近このことを本当に強く感じる。</p>
<p>もとより、あまり多くの本を読んだとはいえない自分の浅学と理解力のなさは承知の上なのだが、沢山の本を読んでいる人に出会っても、この一冊が自分の人生にとって、かけがえのない一冊だ、という本を持っている人にはかなわないな、と思う。</p>
<p>辻邦生はパリ留学時代、プルーストの『失われた時を求めて』を身体を擦り付けるようにして読んだという。その経験がのちの素晴らしい作品を生んだことは間違いない。</p>
<p>どこで読んだのか忘れてしまったけれど以前、体験と経験の違いについて、このような文章を読んだことがある。</p>
<p>体験はその場にいる全員が等しく得るが、経験はそれを体験した個人が自己の中で醸成していくことでしか生まれない。</p>
<p>読書というものもきっと同じなのだろう。知識を吸収するための情報としか考えない人にとっては本はやはり、ただの文字の羅列でしかない。だけど一冊の本を経験として読むとき、その読書は本当に生きたものになる。</p>
<p>活字の語源は活版印刷の文字が、一度だけで使い捨てられることのない、活きた文字だからと聞いたことがあるけれど、ひとつづりの言葉、一節の文、一冊の本が、その人の人生の中で繰り返し繰り返し、何度も反復されるとき、そんなときにこそ文字はきっと本当に生き生きとした活字になるのだ。</p>kiyo須賀敦子のエッセイに『塩一トンの読書』という作品がある。教科書にも載っているから読んだことのあるひとも多いかもしれない。午前三時の自省録2019-07-13T14:38:48+00:002019-07-13T14:38:48+00:00https://funnysunday.com/essay/e58d88e5898de4b889e69982e381aee887aae79c81e98cb2<p>いったい私は人生の苦しい季節をどうやって乗り越えてきたのだろう。今よりつらいことは沢山あったはずなのに、それらはすっかり遠い出来事で、思い出せるのはそういった苦労の実感がすっかり抜け落ちたあとのこんなことがあった、という思い出だけだ。</p>
<p>人はいつだって今直面している問題に頭を悩ませ、ときには心をわずらいながら生きている。だとしても私たちにとって問題になるのはそんな現実の方ではなくて、今現在のこの状況なのだ。</p>
<p>人は長い困難が続くと、ありのままの世界を理解しようという意欲を失い、認識の方を自分の都合に合わせてねじ曲げてしまう。しかしそれはアルコールで愉快になった者が翌朝絶望とともに眼を覚ますのに似て、現実世界のなに一つとして変える力を持たないまやかしに過ぎない。</p>
<p>己の正しさの証明に明け暮れる者たちは、既にどこかで認識がねじ曲がった酔い潰れた者たちだ。正しさとはドアの錠がいつでも唯一の鍵で開くような、そのような固定的なものではなくて、昨日開けることのできた鍵が今日は何の役にも立たない、といった類のものだから。ならば私たちに可能なのは模範解答を見つけることなのではなくて、むしろ誤ちをひとつずつ認めてゆくことなのだろう。どうやらそこに人の恐怖の根源があるのではないか。</p>
<p>なにもかもを肯定するような一見前向きな仕方ではなくて、すべてを「……ではない」という否定形で語らなければ表現できないなにかがたしかにあって、それが実は現実世界を表現する唯一の方法であるというよりも、むしろ「私自身」がそうであるということに、我々の足場は大きく揺らぐ。</p>
<p>「私は……である」ではなくて「私は……ではない」と言い尽くしていくことでしか、どうやら本当のアイデンティティは見えてこないものなのだろう。</p>
<p>私たちは敗北しても、打ちのめされても、逃げ出しても、この現実に対してはシラフでいなければならない。もしも今、心を恐怖が支配するならば、それは私たちが現実に立ち向かっているということのなによりの証なのだ。</p>kiyoいったい私は人生の苦しい季節をどうやって乗り越えてきたのだろう。今よりつらいことは沢山あったはずなのに、それらはすっかり遠い出来事で、思い出せるのはそういった苦労の実感がすっかり抜け落ちたあとのこんなことがあった、という思い出だけだ。風の吹く家2019-07-12T14:03:59+00:002019-07-12T14:03:59+00:00https://funnysunday.com/essay/e9a2a8e381aee590b9e3818fe5aeb6<figure class="wp-block-image"><img src="/assets/uploads/2019/07/DSC01467-1024x682.jpg" alt="旧矢作家住宅" class="wp-image-2994" srcset="/assets/uploads/2019/07/DSC01467-1024x682.jpg 1024w, /assets/uploads/2019/07/DSC01467-300x200.jpg 300w, /assets/uploads/2019/07/DSC01467-768x512.jpg 768w, /assets/uploads/2019/07/DSC01467.jpg 1280w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
<p>親しいひとの幾人かが鬼籍に入り、この思い出にしか姿をみることのできない人々は、日を重ねるごとに遠ざかり離れていく。彼らの声や表情は、いつの間にか具体的な場面のものではなくなり、霞んだ背景にぼんやりと浮かぶ抽象的なものでしかなくなる。けれど彼らと私の距離は、遠ざかると同時に、私が間違いなく彼らの方へ向かっているという意味において、近づいているともいえる。必ずしも、それが再会を意味していなくても。</p>
<p>若いころは想像だにしなかったことだけれど、私は彼らとの別れから時間がたつに連れて、この不在の人々が、日々生きているものに及ぼす影響が、その存在のうつろさとは裏腹にけっして小さなものではないということを、実感として感じるようになった。</p>
<p>彼らのおもかげは日常の些細な瞬間にふいにあらわれて、私たちを立ち止まらせたり、あるいは前進させたりする。それは好きな本の一節が時を経てより深い言葉に変化して行くのに似て、彼らの不在の長さの分だけ、よりいっそう重みを持って立ち現れてくるものなのだ。</p>
<p>入梅まえのこと。東北をゆっくりと巡りたくなって、ひとりで寝袋とテントを持って旅に出かけた。山形の新庄市に着いたとき、道の脇に古い建物が見えて、そのたたずまいに呼ばれた気がした。それは国の重要文化財に指定された旧矢作家住宅という江戸時代中期に建てられた農家の家だった。</p>
<p>受付のおばさんに挨拶をすると、とてもにこやかな笑顔で迎えてくれて、建物の中を見ていると冷たいお茶と冷やしたトマトを切って持って来てくれた。トマトには塩がふってあって、炎天下の中、汗をかいて脱水症状になりかけていた私にはとてもありがたかった。私がお茶を飲んでいる脇でこの家の歴史を説明し終えると、管理人のおばさんは「ゆっくりして行ってください。ここは監視するカメラも付いてないし、自由に過ごしてね」と言って受付に帰っていった。</p>
<p>おばさんが去った古民家でひとりトマトを食べながら私は涙が流れてくるのを止められなかった。今しがた説明してもらった歴史に感動して流れたわけではない。実のところ私はトマトが苦手だった。けれどせっかく出してくれたその気持ちが嬉しくて、私は泣きながらトマトを完食した。</p>
<p>板の間に引かれたむしろに横たわって目を閉じてみた。窓にかかったよしずを通り抜けてくる風が優しく家屋の中を吹いていき、あたりは静まりかえっていた。</p>
<p>寝転んでいると、ふと亡くなった祖父母のことを思い出した。これほど古い家屋ではなかったけれど、私の祖父母もやはり農家で、今の季節には窓を開けると家の中をこんな風に、涼しい風が吹き抜けていったものだった。</p>
<p>すると突然、懐かしさが込み上げてきて本当に涙がこぼれた。この家に住んでいた人も、きっと貧しくても家族が寄り添いあって暮らしていたのではないか。祖父母の注いでくれた愛情に今さらのように気がつきながら、私はなんだか暖かい気持ちになって、家屋を吹いていく風が涙で濡れた頬をかわかすまで、そこでそのまま横になっていた。</p>
<p>家屋を出ておばさんにお礼をいうと「わたし世話焼きだから。逆に迷惑じゃなかったかしら。気をつけてね」と笑顔で送り出してくれた。そんな彼女の笑顔に祖母の面影を見た気がした。祖母も不意の来客があると心を込めてもてなす人だった。</p>
<p>こんな風に、もう会えないと思っていた誰かに、たとえその面影だけでも再会することがあるのだと気がついて、私にはまた、祖父母との思い出が一段と大切なものになった。</p>kiyo